中国共産党 概要

中国共産党

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概要

2008年までの憲法では序言で中国共産党が各民族人民や多党協力と政治協商制度を指導[15]すると規定されているのみで、ベトナム憲法・キューバ憲法のように共産党が国家を指導するとは直接的な明記はされていなかった。

実質的にはヘゲモニー政党制によって中国に事実上一党独裁制を敷いているが、2009年中央政治局常務委員賈慶林が機関紙の「人民日報」に寄せた『中国の特色ある社会主義路線の上で、中国共産党の指導する多党協力と政治協商制度を不断に整備し、発展させる』によれば、「中国共産党の指導する多党協力と政治協商制度は、西側二大政党制多党制のような、一方が政権に就けばもう一方が下野する権力争奪型の政党関係とも、一党制のような権力独占型の政党関係とも異なり、民主的に協議し、互いの心の底まで打ち明けて親しく交わる、斬新な協力型の政党関係なので」あり、「民主党派と無党派の人々は、中国共産党による指導を自ら進んで受け入れ、中国共産党と親密に協力し、中国の革命・建設・改革事業に共に力を尽くしているのである」と主張されている[16]

しかし結局2018年習近平政権での憲法改正により、第1条に「中国共産党の指導は、中国式社会主義の最も本質的な特徴である中国共产党领导是中国特色社会主义最本质的特征)」と記述され、ベトナム・キューバ・ラオスなどと同様に「党の指導性」が憲法で明確化されるに至った[17]

2020年10月、アメリカ合衆国は中国共産党員のアメリカ移民・グリーンカード取得を禁止した[18]

歴史

前史

1919年5月4日に中国共産党の先駆団体である「マルクス主義研究会」は、反政府・反日・反帝運動である5・4運動に参加した[19]

結成

中国共産党章程(規約)中国語版(2017年版)

1921年7月、コミンテルン(国際共産主義組織)の主導により北京大学文科長の陳独秀や北京大学図書館長の李大釗、元北京大学図書館司書の毛沢東らが各地で結成していた共産主義組織を糾合する形で、日本東京帝国大学(現在の東京大学)への留学から帰国した李漢俊中国語版上海の自宅にて第1次全国代表大会(第1回党大会)を開催し、結成されたとされる[注釈 3][20]

一般に創立党員は57人とされるが、57人の名前が明確に示された文献は無く、本当に57人であるかは定かではない。結成時に上海に集まった党員は13人であるとする説もあるが、公式記録では12人とされている。また、顧問としてオランダ共産党政治局員が招聘されている。なお創立党員で中華人民共和国の建国まで生き残り、なおかつ死ぬまで「中国共産党」内での名誉を保ち続けた者は毛沢東董必武のみとされる。

コミンテルン指導下

中華民国の統治期にコミンテルンの代表者であるマーリン(ヘンドリクス・スネーフリート)の指導により中国国民党と第一次国共合作を結び[21]、陳独秀も毛沢東も中国国民党の党員となるも[22]、その後、1927年蔣介石による4・12クーデター上海クーデター)および同年7月の武漢政府からの共産党退出により国共分裂で敵対することとなった。一方で、ソ連でのスターリン派とトロツキー派の抗争が中国共産党にも飛び火し、トロツキー派のレッテルを貼られた陳独秀は、第一次国共合作を主導したとして責任を問われて失脚する(Left Opposition|左翼反対派)。代わって選出されたのが瞿秋白であり、ロミナーゼ・ウィッサリオン英語版ノイマン・ハインツ英語版の指導により広州起義を起こすが失敗し[23]、妄動主義による失敗として批判され失脚する[24]。代わって選出されたのが向忠発であるが、実権はプロフィンテルンと連絡を取る李立三が握っていた[25]。ソ連側は「国民政府の軍隊内に、共産党の細胞を植付け、其戦闘力を弱める事が最も必要」だとしていた[26]

結党当初はコミンテルンの指導が強く、またソビエト連邦への留学生が党の中心勢力であった。コミンテルンは広大な農村社会を抱える中国の特殊性を理解せず、大都市の労働者による武装蜂起を中国革命の基本路線と考えた。当時の党指導部はコミンテルンの指導に忠実に従っただけだが、建国後以降の党は、当時の指導部に対して第一次国共合作期はその関係に固執しすぎたとし、また国共分裂後の初期の暴動路線に対して極左冒険主義に走りすぎ失敗を犯したとの評価をしている。中国共産党は数多くの都市暴動を画策したが、中華民国南京政府の軍隊による度重なる鎮圧により、十分な抵抗勢力とはなりえなかった。

このような中で毛沢東は一農村に拠点を置いて活動していた。そうした農民を対象とした社会主義化の動きは、それまでのマルクス主義レーニン主義のように労働者階級を中心とするものとは異なっていた。当時の中国の人口の圧倒的多数を占めるのは農民であり、農民の支持なくして革命の実現はありえないと毛沢東は考えた。中華民国南京政府の軍隊、警察の捜索の及ばない省境界の山地を根拠地とした毛沢東らは「有土必豪無紳不劣 (土地を有するは必ず横暴で、紳の劣らぬこと無し)」として、小作人を扇動したため、小作人は解雇され共匪となった[27]

1930年6月、中国共産党は直ちに蜂起武装し、1省又は数省の重要省区の首先的勝利を目指す李立三コースを取る[28]1931年に毛沢東らは江西省瑞金において「中華ソビエト共和国臨時政府」を樹立した。

なおコミンテルンからの資金の授受は、上海にあるドイツ商の禪臣洋行中国語版を介して行われていると目されていた[29]

日中戦争期

日中戦争支那事変)前に上海に設立されたプロフィンテルンのアジア太平洋支部である太平洋労働組合書記局書記のイレール・ヌーランが逮捕されるヌーラン事件が起き、中国国民党により向忠発が銃殺されて共産党幹部の逮捕が続くと、李立三コースを批判していたコミンテルン極東局を中心とするパーベル・ミフ派の勢力が強くなった[28]。共産党軍は国民党軍の包囲攻撃に抵抗することができず、1934年に瑞金の中央根拠地を放棄して逃避行を始めた(後に長征と称される)。その過程の1935年に開催された遵義会議において毛沢東の指導権が確立したと言われる。逃避行は奥地でソ連に近い陝西省延安に拠点を構えることで終わった。

1933年5月、ソ連のトロツキストと繋がりを持つとされる元ドイツ参謀のハンス・フォン・ゼークト[30]が中華民国の軍事顧問となった。1934年12月、日本人を中心に運営されていた満州国は、元白軍司令官のグリゴリー・セミョーノフの参加する反ソ組織の白系露人事務局を設立し、1935年3月にソ連より中東鉄道およびその付属地を買収した (北満鉄道讓渡協定)。1935年5月2日、ゼークトの提案に基づき中華民国秘密警察の藍衣社が親日要人へのテロ事件を起こしたため日本は抗議し、1935年6月27日に日本と中華民国は梅津・何応欽協定を結び、その協定の中でソ連の偵察所であった張家口の徳華洋行の妨害工作を企てた[31]。それらに対し、ソ連は、1935年7月から8月にかけてモスクワで第7回コミンテルン世界大会を行い、コミンテルンは日本やドイツ等を共産化の主な攻撃目標に定めた[32]。中国共産党代表団(ミフ派)は国共合作を呼びかける八・一宣言を行い、1936年西安事件(西安事変)・1937年盧溝橋事件中ソ不可侵条約を経て、国民党とのいわゆる第二次国共合作を成立させた。日中戦争の際は八路軍などを編成して、華北を中心とした解放区を拠点に日本軍との正面衝突は避けて力を温存させた。また蔣介石を通して、ソ連との不可侵条約締結などで反共から容共化に変えさせた。

ソ連において1934年から続く内務人民委員部により、イギリス・ドイツ・日本と関係を結んだ右翼=トロツキスト・ブロック、資本主義の復活を企む右翼の社会革命党(エス・エル党)および革命的祖国敗北主義により再共産主義革命を企むトロツキストが組んだもの[30]とされた人民がソ連共産党書記長ヨシフ・スターリンによる恐怖政治大粛清されるなか、太平洋労働組合書記局はウラジオストクでプロフィンテルンの巻き返しを図るが、1937年にプロフィンテルンが解散となる。1936年、パーベル・ミフは、『中國共産黨 英勇奮鬪的十五年』[33]を出版するが[34]、1938年7月、КРТОへ参加したとしてソ連の内務人民委員部に処刑される[35]1940年8月にはトロツキーも暗殺された。

1940年10月から始まるナチ党アドルフ・ヒトラー総統率いるナチス・ドイツモスクワ侵攻に対し、アメリカ民主党フランクリン・ルーズベルト政権はソ連の支援を始めた[36]。更に、アメリカ政府は独ソ戦におけるソ連軍への支援の際に、ソ連政府に対して「極東の安全は英米が守るのでソ連極東軍を西部のドイツ戦線に移動すべし」と主張していた[36]ほか、1941年7月20日にアメリカ政府による支援が内戦に使用されることは許容できないとして、中国国民党に中国共産党との和平を促す声明を発表した[36]1942年より、毛沢東は整風運動を行い、ミフ派を中心とするコミンテルンの影響を排除した。戦時下の1943年、コミンテルンが解散となる。

1945年、第7回党大会で毛沢東思想が党規約に指導理念として加えられ、6月19日の第7期1中全会において、毛沢東は党の最高職である中央委員会主席に就任した。

国共内戦

1945年日本第二次世界大戦で敗北し、セミョーノフが捕らえられて中国国内の日本軍隊が全面降伏すると、それまでの国民党との妥協的態度から、ソ連の後押しで国民政府打倒共産党政権設立に動いた。内戦を回避したいアメリカ等の意向もあり、毛沢東蔣介石の会談による双十協定などでの妥協が図られたが、結局は国共内戦に突入した。

満州を占領したソ連の後押しにより東北から南下して国民党軍を圧倒し、最終的に国民政府を打倒して1949年10月1日中華人民共和国を建国した。国民政府は根拠地を台湾中華民国政府)へ移転した。

内戦でのアメリカの傍観への疑義

1945年12月、アメリカの元陸軍参謀総長ジョージ・マーシャルは大統領のハリー・トルーマンから中国における全権特使に任命され、13ヶ月中国に滞在したが、ソ連とアメリカで世界分割を行う密約を行っていた外交問題評議会(CFR)、太平洋問題調査会(IPR)の勢力に組した彼は「内戦において本来劣勢であった共産党が優勢となるような行動を意図的に取った」と言う主張があり、下記の点が指摘されている[37]。この疑惑は、後にアメリカ政界でジョセフ・マッカーシー議員によるマッカーシズム赤狩り)にまで発展した。

  • マーシャルは、国民党が有利な状況となると蔣介石に圧力をかけて再三停戦命令を出させ、国民党の優勢がピークとなった1946年末に、無条件の即時停戦命令まで下した。
  • マーシャルは中国での武器や弾薬の通商禁止措置を実施したが、それにより国民党が弱体化する状況で、ソ連が旧日本軍が満州地域に残した物資やアメリカからの援助物資を共産党に横流しするのは全く黙認した。
  • 1948年3月、アメリカ議会が国民党に対して2億7500万ドルの経済支援と1億2500万ドルの緊急軍事支援を議決したが、マーシャルと国務省の親中国派(=世界分割派)は、同年11月まで実施を意図的に遅延させた。この間に国民党軍の敗北が決定的となった。
  • 国務省官僚を含む太平洋問題調査会(IPR)は、アメリカ国内で積極的な中国共産党擁護プロパガンダを展開した(IPRはマッカーシズムで攻撃され解散した)。

中華人民共和国の建国

建国宣言を朗読する毛沢東

1949年10月1日中華人民共和国の建国が北京で宣言された。中華人民共和国の建国によって政権政党となった中国共産党は朝鮮戦争での軍事介入やアジア・アフリカ会議への参加など積極的な外交活動を行った。

当初、ソ連をモデルとして社会主義建設が始まったものの、1956年フルシチョフによるスターリン批判以降はソビエト連邦共産党との関係が悪化し、1960年からは公開論争にまで発展し(中ソ論争)、武力衝突までに至った。

文化大革命

中ソ論争の頃より中国共産党は独自路線を歩み始めるが、党内部では反右派闘争大躍進政策などの路線闘争・権力闘争は絶えず、毛沢東が自らの実権を回復するために1966年に発動した文化大革命でその混乱は極に達した。

毛沢東批判さえしなければ共産党ですら批判してもよいということになり、これまで政治的な発言が制限されてきた民衆の欝憤が一気に爆発した。全国各地に張り巡らされていた既存の党委員会は解体され、代わって革命委員会が設立されるようになる。

大躍進政策の失敗後、経済の調整に取り組んできた国家主席劉少奇は毛沢東から打倒すべき筆頭とみなされ、失脚の後に獄死した。鄧小平も失脚し、地方で労役に従事させられた(1973年に復帰)。

また、1971年に毛沢東の後継者と第9回党大会で指名された林彪およびその側近は毛沢東暗殺を画策するも失敗し、飛行機でソ連へ逃亡途中にモンゴルで墜落死した(林彪事件)。

内部問題とソ連との敵対関係(ダマンスキー島事件を参照)で危機感を強めた政権は、1971年アルバニア決議国際連合に加盟して国際社会に参加し、1972年アメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソンの中華人民共和国訪問の受け入れや、日本との国交回復を実現するなどの外交政策の大転換を行った。

1976年に毛沢東が死去すると文化大革命推進派は力を失い、毛沢東の妻の江青など文革派の四人組は逮捕され、華国鋒体制が成立し、1977年に文革の終結が宣言された。

改革開放路線

鄧小平

1978年12月の第11期3中全会では、最終的に文革期の失脚から返り咲いた鄧小平の指導体制が確立し、それまでの革命路線から改革開放・現代化路線へと大きく転換した。1981年文化大革命を完全に否定し、毛沢東の誤りを一部認めた(「建国以来の党の若干の歴史問題についての決議」)。

改革開放の流れの中で党の指導体制は改革派と保守派に分れ、1980年代後半からは党機構と行政機構の分離も盛んに議論されるようになったが、1989年に起きた天安門事件後は保守派が息を吹き返し、党の独裁指導体制が再び強化された(趙紫陽がこの事件で失脚した)。しかし、それによってこれまで続いてきた経済成長がスピードダウン、1992年冬に行われた南巡講話の中で鄧小平は「改革開放を加速せよ」と指示を出し、同年10月の第14回大会では社会主義市場経済が打ち出された。

鄧小平の死後、1997年9月の第15回党大会では、鄧小平理論を指導思想と確立し、社会主義の初級段階における党の路線が確立されると同時に、名実ともに江沢民時代に入った。

21世紀初頭から現在

総書記の江沢民(在任:1989年11月9日 - 2002年11月15日)
総書記の胡錦濤(在任:2002年11月15日 - 2012年11月15日)
総書記の習近平(在任:2012年11月15日 - )

2002年11月の第16回党大会では、江沢民が提唱した私営企業家の入党をも認める「3つの代表」思想が規約に明記されると共に、江沢民から胡錦涛体制へと移行し、第3世代から第4世代への世代交代が初めて平和的に(混乱を伴う権力闘争なしに)実現した。2004年9月に江沢民が最後まで残していた党中央軍事委員会主席の地位も胡錦濤に移り、少なくとも公式には胡温体制への転換が完了した。2012年習李体制に交代した。

2020年までにGDPを2000年の4倍とし、「全面建設小康社会(いくらかゆとりのある社会を全面的に建設する)」という目標を打ち出しているが、政治の民主化を拒んで一党独裁体制を継続していけるかが注目されている。2017年に「党組織」は国有企業に9割かつ私営企業でも5割超に存在し[38]、外資系企業にも7割近く党組織が設立されており[39][40]、共産党による企業統制が強化されている[41][42][43]

2017年10月の第19回全国代表大会では、個人の名を冠した思想は毛沢東鄧小平以来とされる「習近平による新時代の中国の特色ある社会主義思想(習近平思想)」がマルクス・レーニン主義毛沢東思想鄧小平理論3つの代表科学的発展観に続く6番目の党の「指導思想(行動指南)」として党規約に盛り込まれた[44][45]。また、習近平が唱えてきた一帯一路中国の夢人類運命共同体四つの全面四つの意識中国語版党領導一切中国語版、「強国」、「強軍」といったフレーズなども党規約に明記された[45][46]

歴代党首

中央執行委員会委員長

中央委員会総書記

中央委員会主席

中央委員会総書記


注釈

  1. ^ 第1回共産党大会に参加した党創始者で延安時期も共産党で活動していたのは、毛沢東と董必武の2人である。彼らは7月に開催されたことは記憶していたが、確かな会議の日付をはっきり思い出せなかった。記録が欠如しているため早急には調査できないので、7月1日を党の創建記念日とすることにした[要出典]
  2. ^ の正副省長・自治区政府の正副主席・直轄市の正副市長
  3. ^ 中国共産党はこのように主張するが、当時の文書などは無い。

出典

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