ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/09 04:51 UTC 版)
顕彰
崩御後、ドイツ各地に数多くのヴィルヘルム1世像が建立された。多くは騎馬像である。キフホイザー記念碑やポルタ・ヴェストファーリカのヴィルヘルム皇帝記念碑、コブレンツのドイチェス・エック、かつてベルリンにあったヴィルヘルム皇帝国民記念碑(東ドイツの社会主義政権に破壊されて現存しない)などの銅像が著名である[1]。
-
キフホイザー記念碑の像
-
ポルタ・ヴェストファーリカのヴィルヘルム皇帝記念碑の像
-
コブレンツのドイチェス・エックの像
-
ハンブルク=アルトナに立つ像
-
キールに立つ像
-
ヴェストファーレンパークに立つ像
-
かつてベルリンにあったヴィルヘルム皇帝国民記念碑(1900年頃撮影)。第二次大戦後、東ドイツによって破壊される。
-
バート・ホンブルク・フォア・デア・ヘーエにあるカイザー・ヴィルヘルムス=バート。ヴィルヘルム1世像も見える。
-
第一次世界大戦後、フランス領となったストラスブール(ドイツ語名・シュトラースブルク)でヴィルヘルム1世像が撤去される様子。
人物
![](https://weblio.hs.llnwd.net/e7/redirect?dictCode=WKPJA&url=https%3A%2F%2Fupload.wikimedia.org%2Fwikipedia%2Fcommons%2Fthumb%2F0%2F01%2FBundesarchiv_Bild_146-1970-077-18%252C_Kaiser_Wilhelm_I..jpg%2F180px-Bundesarchiv_Bild_146-1970-077-18%252C_Kaiser_Wilhelm_I..jpg)
首相ビスマルクに行政のほとんど全てを委ねたようにヴィルヘルム1世は主体的に政治を行う事は少なかった。ビスマルクは「国王が身を入れて何かやりだすのは、反対された場合に限る」と語っている[164]。しかしヴィルヘルム1世は首相からの助言であってもそれが納得できぬ説明であれば、徹底的に検討しなければ受け入れようとはしなかった。それは自身の良心への忠実さ、真剣な態度の証左であり、その態度によって広く尊敬された[165]。
また軍人気質の騎士的心情の持ち主であり、嘘をつく事が出来ず、約束を破ることができず、一度決断したなら揺らぐことがなかった[166]。それについてビスマルクは「御老体の腰をあげさせるのは難しいことだったが、一度彼から支持を得れば彼はそれを守り通した。誠実で正直で信頼のできる人物だった。」と語っている[167]。
信条として王権神授説を信奉していたが、他人に対する気遣いを忘れない謙虚な人物であった。彼は自室に絨毯を敷かせて自分の足音が響かないようにしていた[168]。またエムス電報事件の記念碑をいつも避けていた。それは自分の一人の力で成し遂げたことではないことを自戒するためだったという[168]。ビスマルクやモルトケの名声が自分のそれを上回ることを恐れたり、妬んだりするようなこともなかった[169]。ナポレオン3世を捕虜にしたセダンの戦いの戦勝祝賀パーティーでも「ローンが剣を研いで準備し、モルトケがこの剣を振るい、ビスマルクは外交で他国の干渉を防いでプロイセンを今日の勝利に導いた」と自分の功績ではなく3人の功績であることを演説している[166]。
前述したように軍隊は革命から王権を守れる唯一の物と考えていたため軍隊を何よりも愛した。「軍と国家」という軍を国家に優先させる表現を好んで使用したことにもそれが表れている[82]。
軍人気質から自らを律するため質素を旨とし、前線では農家で眠り、粗食も辞さなかった。ホーエンツォレルン王家歴代の中でも新宮殿を造営しなかった数少ない王の一人である[9]。ブルジョワたちが自らの専用列車を所有していた時代にヴィルヘルム1世はお召し列車はおろか御料車さえ持たなかった[9]。
系譜
ヴィルヘルム1世 | 父: フリードリヒ・ヴィルヘルム3世 (プロイセン王) |
祖父: フリードリヒ・ヴィルヘルム2世 (プロイセン王) |
曽祖父: プロイセン王子アウグスト・ヴィルヘルム[1] |
曽祖母: ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公女ルイーゼ[2] | |||
祖母: フリーデリケ[4] |
曽祖父: ルートヴィヒ9世 (ヘッセン=ダルムシュタット方伯) | ||
曽祖母: プファルツ=ツヴァイブリュッケン公女ヘンリエッテ・カロリーネ[3] | |||
母: ルイーゼ |
祖父: カール2世 (メクレンブルク=シュトレーリッツ大公)[5] |
曽祖父: メクレンブルク=シュトレーリッツ公子カール | |
曽祖母: ザクセン=ヒルトブルクハウゼン公女エリーザベト | |||
祖母: フリーデリケ |
曽祖父: ヘッセン=ダルムシュタット侯子ゲオルク・ヴィルヘルム | ||
曽祖母: ハーナウ=リヒテンベルク伯女シャルロッテ |
- フリードリヒ・ヴィルヘルム1世とイギリス王ジョージ1世の王女ゾフィー・ドロテアの第11子、第5王子。フリードリヒ2世の弟。
- 兄にアントン・ウルリヒ(アンナ・レオポルドヴナの夫、ロシア皇帝イヴァン6世の父)、姉にエリーザベト・クリスティーネ(プロイセン王フリードリヒ2世妃)がいる。また妹にユリアーネ・マリー(デンマーク・ノルウェー王フレデリク5世妃)がいる。
- 甥(弟の子)にバイエルン国王マクシミリアン1世がいる。
- 妹にヴィルヘルミーネはロシア大公パーヴェル(後のロシア皇帝パーヴェル1世)妃がいる。
- 妹にシャルロッテ(英:シャーロット)はイギリス国王ジョージ3世妃がいる。
注釈
- ^ 自由主義的保守派の官僚や貴族たちによって構成された勢力。1851年から『プロイセン週報』という機関紙を発行するようになったためこう呼ばれた。駐英大使クリスティアン・カール・ヨシアス・フォン・ブンゼン、アルベルト・フォン・プルタレス伯爵、ロベルト・フォン・デア・ゴルツ伯爵、グイド・フォン・ウーゼドムなどが参加[14]。
- ^ ただし自由主義を弾圧する強硬保守派の代表格だった内務大臣フェルディナント・フォン・ヴェストファーレンは摂政就任前に罷免している[18]。
- ^ これについてフランツ・メーリングは「自由主義内閣はその自由主義のためにではなく、その自由主義が無害であるために任命された」と表現する[18]。
- ^ ビスマルクの回顧録によれば、鉄血演説を聞いたヴィルヘルムは王妃アウグスタの影響で不安になっていたという。駅まで出迎えに出たビスマルクと同乗した際にヴィルヘルムは「その結果は私にはよく分かっている。王宮の窓の下でまずお前が民衆から首を刎ねられる。その次は私の首だ。」と不満げに語ったという。これに対してビスマルクは「陛下、それに勝る死がありますか。人間誰でもいつかは死ぬのです。臣は陛下と祖国のために闘って死にます。陛下は御身の尊き鮮血をもって、神から与えられた王権を守るために崩じられるのです。戦場で散るのと断頭台で散るのに違いがありますでしょうか。陛下、ルイ16世を思い浮かべてはいけません。彼は弱者として死にました。陛下、チャールズ1世を思い浮かべてください。彼は王権のために戦い、敗れましたが、王者の威容をもったまま死にました。陛下の取られる道はただ一つ、玉体を危機に晒してでも闘い続けることであります」と奉答したという。これに絶対主義者・王権神授説信奉者のヴィルヘルム1世は勇気づけられて、改めてビスマルクとともに軍制改革を戦い抜く覚悟を固めたのだという[50]。ただしこのビスマルクの回顧録の内容を疑う説もある[51]。
- ^ 古代ゲルマン民族や中世ドイツでは共同して出征する場合に統領を選出していた[116]。
- ^ 独語の文法上、前者が『ドイツ内の一皇帝』に対し後者は『ドイツ唯一の皇帝』的な響きを持つ。DDR(ドイツ民主共和国・東ドイツ)が『ドイツ内の一民主共和国』なのに対しBRD(ドイツ連邦共和国・西ドイツ)が『ドイツ唯一の連邦共和国』と見られるのと同様である。
出典
- ^ a b c d e f g h “Wilhelm I” (ドイツ語). Deutsches Historisches Museum. 2013年12月27日閲覧。
- ^ a b 世界伝記大事典(1980) 世界編2巻、p.85
- ^ a b c d e f “Kaiser Wilhelm I.” (ドイツ語). Deutsches Reich Das Deutsche Reich 1871 -1918 (Kaiserreich). 2013年12月27日閲覧。
- ^ a b 望田(1979) p.52
- ^ シュターデルマン(1978)、p.85
- ^ シュターデルマン(1978)、p.82
- ^ a b エンゲルベルク(1996)、p.258
- ^ シュターデルマン(1978)、p.82-83
- ^ a b c d 前田靖一(2009) p.448
- ^ シュターデルマン(1978)、p.87
- ^ a b エンゲルベルク(1996)、p.320
- ^ a b 成瀬・山田・木村(1996) 2巻 p.325
- ^ エンゲルベルク(1996)、p.321
- ^ ガル(1988)、p.194
- ^ a b 望田(1972) p.84
- ^ エンゲルベルク(1996)、p.404
- ^ 前田光夫(1980) p.101-102
- ^ a b 前田光夫(1980) p.104
- ^ アイク(1994) 2巻 p.23
- ^ 前田光夫(1980) p.102-103
- ^ 前田光夫(1980) p.103
- ^ アイク(1994) 2巻 p.22/25-26
- ^ エンゲルベルク(1996)、p.423
- ^ スタインバーグ(2013) 上巻 p.255
- ^ 前田光夫(1980) p.105
- ^ 望田(1979) p.56-57
- ^ 前田光夫(1980) p.127-148
- ^ 前田光夫(1980) p.132
- ^ 前田光夫(1980) p.151
- ^ 渡部(2009)、p.126
- ^ 前田光夫(1980) p.133/150
- ^ 前田光夫(1980) p.150/157-158
- ^ 前田光夫(1980) p.158/162/164
- ^ a b 前田光夫(1980) p.166
- ^ 前田光夫(1980) p.169
- ^ 前田光夫(1980) p.176-177
- ^ 前田光夫(1980) p.168-169
- ^ 前田光夫(1980) p.169-170
- ^ アイク(1994) 2巻 p.111
- ^ 前田光夫(1980) p.172
- ^ 前田光夫(1980) p.182-183
- ^ 前田光夫(1980) p.183
- ^ 前田光夫(1980) p.185
- ^ 前田光夫(1980) p.187
- ^ 前田光夫(1980) p.193-194
- ^ a b 前田光夫(1980) p.212
- ^ 前田光夫(1980) p.194-195
- ^ ガル(1988) p.308-309
- ^ ガル(1988) p.322
- ^ 鶴見(1935) p.162-163
- ^ スタインバーグ(2013) 上巻 p.332
- ^ 林(1993) p.171
- ^ 成瀬・山田・木村(1996) 2巻 p.379
- ^ 前田光夫(1980) p.335
- ^ ガル(1988) p.364
- ^ a b ガル(1988) p.365
- ^ ガル(1988) p.369
- ^ ガル(1988) p.372-375
- ^ エンゲルベルク(1996) p.517
- ^ アイク(1995) 3巻 p.40
- ^ 望田(1972) p.149
- ^ アイク(1995) 3巻 p.41/47
- ^ アイク(1995) 3巻 p.126
- ^ ガル(1988) p.430
- ^ アイク(1996) 4巻 p.63
- ^ スタインバーグ(2013) 上巻 p.414
- ^ アイク(1996) 4巻 p.145
- ^ アイク(1996) 4巻 p.230-231
- ^ 望田(1979) p.133
- ^ エンゲルベルク(1996) p.574
- ^ アイク(1996) 4巻 p.180
- ^ エンゲルベルク(1996) p.575-576
- ^ ガル(1988) p.473
- ^ a b エンゲルベルク(1996) p.575
- ^ アイク(1996) 4巻 p.181
- ^ エンゲルベルク(1996) p.576
- ^ a b c ガル(1988) p.474
- ^ a b アイク(1996) 4巻 p.183
- ^ エンゲルベルク(1996) p.577
- ^ ガル(1988) p.482-483
- ^ a b 望田(1979) p.139
- ^ a b アイク(1996) 4巻 p.184
- ^ アイク(1997) 5巻 p.28
- ^ 望田(1979) p.146-148
- ^ 望田(1979) p.148
- ^ 望田(1979) p.148-149
- ^ アイク(1997) 5巻 p.130-132
- ^ エンゲルベルク(1996) p.665
- ^ ガル(1988) p.540-541
- ^ エンゲルベルク(1996) p.666
- ^ アイク(1997) 5巻 p.139
- ^ アイク(1997) 5巻 p.140
- ^ アイク(1997) 5巻 p.143
- ^ エンゲルベルク(1996) p.667-668
- ^ ガル(1988) p.558
- ^ アイク(1997) 5巻 p.155-156
- ^ ガル(1988) p.561
- ^ アイク(1997) 5巻 p.160
- ^ a b アイク(1997) 5巻 p.162
- ^ ガル(1988) p.561-562
- ^ アイク(1997) 5巻 p.163
- ^ a b c ガル(1988) p.562
- ^ a b アイク(1997) 5巻 p.164
- ^ ガル(1988) p.562-563
- ^ ガル(1988) p.563
- ^ アイク(1997) 5巻 p.191
- ^ 望田(1979) p.171
- ^ アイク(1997) 5巻 p.221
- ^ 望田(1979) p.174-175
- ^ 前田靖一(2009) p.298
- ^ 鹿島(2004) p.452-453
- ^ 望田(1979) p.175
- ^ アイク(1997) 5巻 p.238
- ^ 成瀬・山田・木村(1996) 2巻 p.389
- ^ ガル(1988) p.583-584
- ^ ヴェーラー(1983) p.95
- ^ a b エンゲルベルク(1996) p.704
- ^ アイク(1997) 5巻 p.250
- ^ アイク(1997) 5巻 p.239
- ^ アイク(1997) 5巻 p.248
- ^ a b 鶴見(1935) p.294
- ^ ガル(1988) p.584
- ^ a b ハフナー(2000) p.268
- ^ 鶴見(1935) p.295
- ^ エンゲルベルク(1996) p.705
- ^ a b アイク(1997) 5巻 p.249
- ^ 鶴見(1935) p.296-297
- ^ 鶴見(1935) p.298
- ^ 鶴見(1935) p.299
- ^ 鶴見(1935) p.300
- ^ エンゲルベルク(1996) p.706
- ^ 鶴見(1935) p.301
- ^ 鶴見(1935) p.302
- ^ 木下(1997) p.106
- ^ アイク(1998) 6巻 p.14-15
- ^ 大橋(1984) p.241
- ^ アイク(1998) 6巻 p.113
- ^ 木下(1997) p.104-105
- ^ 木下(1997) p.105
- ^ アイク(1998) 6巻 p.114
- ^ アイク(1999) 8巻 p.83
- ^ アイク(1998) 6巻 p.209
- ^ 尾鍋(1968) p.40
- ^ アイク(1998) 6巻 p.211-212
- ^ アイク(1998) 6巻 p.214
- ^ 前田靖一(2009) p.391
- ^ 前田靖一(2009) p.391-392
- ^ アイク(1998) 6巻 p.215
- ^ 尾鍋(1968) p.42
- ^ アイク(1998) 6巻 p.216
- ^ 尾鍋(1968) p.42-43
- ^ アイク(1998) 6巻 p.218
- ^ アイク(1998) 6巻 p.220
- ^ ガル(1988) p.743
- ^ 成瀬・山田・木村(1996) 2巻 p.442
- ^ アイク(1999) 8巻 p.10
- ^ アイク(1999) 8巻 p.11
- ^ アイク(1999) 8巻 p.84
- ^ 世界伝記大事典(1980) 世界編2巻、p.86
- ^ ガル(1988) p.896-897
- ^ アイク(1999) 8巻 p.77
- ^ a b c 前田靖一(2009) p.449
- ^ 前田靖一(2009) p.450
- ^ アイク(1996) 4巻 p.33
- ^ アイク(1994) 2巻 p.35
- ^ a b 渡部(2009) p.166
- ^ ガル(1988) p.310
- ^ a b アイク(1994) 2巻 p.34
- ^ アイク(1994) 2巻 p.34-35
- ^ a b ハフナー(2000) p.241
- ^ a b アイク(1998) 6巻 p.24
- ^ a b 加納(2001) p.98
- ^ ルードイッヒ(1942) p.38-39
- ^ ハフナー(2000) p.240-242
- ^ デアゴスティーニ・ジャパン(2004) p.15
- ^ アイク(1997) 5巻 p.218
- ^ アイク(1999) 8巻 p.77
- ^ 伊藤(2004) p.44
- ^ 伊藤(2004) p.54
- ^ a b 九頭見(2002) p.33
- ^ a b 九頭見(2002) p.36
- ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)のページへのリンク