ブハラ・ハン国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/18 09:45 UTC 版)
歴史
シャイバーニー朝
1557年、シャイバーニー朝のイスカンダル・ハン(在位:1561年 - 1583年)の代にサマルカンドからブハラに遷都して以降、ブハラ・ハン国と呼ばれるようになる。
アブドゥッラーフ2世(在位:1583年 - 1598年)の治世下において最盛期を迎え、バルフ及びフェルガナ(1573年)、タシケント(1576年)、ホラーサーンのヘラートおよびマシュハド(1582年 - 1583年)、ホラズム(1593年 - 1594年)を征服した。この時、ロシア帝国との接触も起こった。
ジャーン朝
ピール・ムハンマド2世(在位:1598年 - 1599年)の死後、シャイバーニー家が断絶したため、シャイバーニー朝はバーキー・ムハンマドにハン位を譲り、ジャーン朝(アストラハン朝)(1599年 - 1753年)に代わった。
1611年頃に即位したイマーム・クリー(在位:1611年 - 1642年)は国内の治安と経済の発展をはかり、首都ブハラに各地から著名な学者を招いて学芸の振興に努め、ジャーン朝の最盛期を築いた。このことは中央アジアの暗黒時代における唯一の光明となった。しかし、イマーム・クリの死後は後継争いが相次ぎ、次第に荒廃していった。
1740年、アフシャール朝のナーディル・シャーが中央アジアに侵入すると、ハンのアブール=ファイズ(在位:1711年 - 1747年)はナーディル・シャーから贈り物を受け取り、婚姻関係を結んでアフシャール朝の従属下に入った。この頃から宰相の地位にあって権力を握り始めたのがマンギト部族出身のムハンマド・ラヒームであった。彼はアブル=ファイズの後を継いだアブドゥル=ムウミン(在位:1747年 - 1748年)を暗殺して権力を掌握し、1756年には最後のハンであるアブル=ガーズィーを廃して自らハン位に就き、ジャーン朝を滅ぼしてマンギト朝を創始した。
マンギト朝
マンギト朝はチンギス・カンの男系男子の系統ではなかったため、チンギス統原理の意識から初期の君主はハン位を名乗ることを躊躇することがあって、ハン位を名乗ったりアミール位を名乗るなどして君主号が一定しなかったが、シャー・ムラード(在位:1785年 - 1799年)の時にアミール(アミール・アル・ムウミニーン:信徒の長)を正式な君主号としたので、以降をブハラ・アミール国と呼ぶことがある。歴代カリフの称号であった「アミール・アル・ムウミニーン」を採用したということは、イスラーム国家の理念を掲げるものであり、以降の君主もハンを名乗らずアミールを名乗り続けた。
19世紀においてバルカン半島から中央アジアに至る広大な地域を舞台にイギリスとロシアとの間でいわゆる「グレート・ゲーム」が展開された。北から侵攻してくるロシア帝国は、1868年にはサマルカンドを占領してブハラ・アミール国を、1873年にはヒヴァ・ハン国を占領し、1876年にコーカンド・ハン国を占領して中央アジアにおける3ハン国をロシア帝国の保護国とした(トルキスタン総督府、ステップ総督府)。
1920年10月、労働者の蜂起が起こり、赤軍が首都を攻撃した。蜂起後、国王は逃亡し、革命委員会が権力を掌握し、独立国家と承認された。1924年、民族派共産党員の大部分が更迭され、ブハラ人民ソビエト共和国となった。
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