フランス復古王政
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ルイ=フィリップとオルレアン朝
ルイ=フィリップは1830年の七月革命で国王に推戴され、「フランスの王 (fr:Roi de France) 」ならぬ「フランス人の王 (fr:Roi des Français) 」(1791年憲法下のルイ16世の称号)を称して国民主権への転換を示した(「七月王政」)。
このオルレアニストの王政は1848年の二月革命で倒され、第二共和政が樹立されてルイ=ナポレオン・ボナパルトが大統領に選ばれた(在職1848年–1852年)。ルイ=ナポレオンは1851年12月2日のクーデターの後、第二帝政を樹立して皇帝ナポレオン3世を称した(在位1852年–1870年)。
復古王政下の政治党派
復古王政下の政治党派には相当の離合集散があった。代議院は反動的なユルトラ派と進歩的な自由主義派との間を揺れ動いた。白色テロで迫害を受けた王政反対派は政治の表舞台から姿を消した。実力者の間でもフランスにおける立憲王政のあり方をめぐって見解の対立があった。
およそすべての党派は一般庶民(アドルフ・ティエールは後にこれを「卑俗な群衆」と呼んだ)に戦々恐々としていた。各党派の政治的見解は階級の利益を代表したものであった。議会の解散による多数派の逆転や重大事件(例えば、1820年のベリー公爵暗殺事件)を利用して、最大野党が政変を図ることもあった。
代議士の闘争は王政対民衆の闘争というよりはむしろ王権との権力闘争であった。代議士は民衆の利益の擁護者を自認していたが、一般庶民、革新政治、社会主義、さらに選挙権拡大のような単純な措置にさえも大きな不安を抱いていた。
復古王政下の主要な政治党派は次のとおりである。
超王党派
超王党派(ultra-royalistes、ユルトラ=ロワイヤリスト)は、1789年以前のようなアンシャン・レジームへの回帰と貴族や聖職者が優位を占める絶対主義を望んだ。同派は共和主義と民主主義を敵視し、名望ある貴族エリート層による厳格な政府を主張したが、納税額による制限選挙すなわち高額納税者の部分的民主制は排除せず、むしろ貴族政治の維持と絶対主義の推進に関心を持っていた。同派は1814年憲章が革命的にすぎるとしてこれを拒否し、絶対王政への回帰、特権と国王(シャルル10世)の再建を目指した。
主要人物には、理論家としてルイ・ガブリエル・ド・ボナール、ジョゼフ・ド・メーストル、議会指導者としてフランソワ=レジ・ド・ラ・ブルドネ、ジュール・ド・ポリニャック(1829年に政権獲得)らがおり、機関紙はラ・コティディエンヌ (La Quotidienne) (日々)紙、ラ・ガゼット・ド・フランス (La Gazette de France) (フランス新聞)紙で、その他の王党派の新聞としてドラポー・ブラン(Drapeau Blanc、白旗)紙、オリフラム(Oriflamme、王旗)紙があった。
立憲派
立憲派(constitutionnels、コンスティテューショネル)は、裕福・有識なブルジョワ、法学者、帝国高級官吏、大学教授を中心とした。同派は貴族階級の勝利も民主主義者の勝利も同様に危惧していたところ、憲章は自由と市民的平等を保障しつつ、公的な問題の処理について無知ゆえに無能力な一般大衆に対し防壁を設けるものであるとして、憲章に従うことを主張した。主要人物にはエティエンヌ=ドニ・パスキエ、ジョゼフ=アンリ=ジョアシャン・レネらがいた。
純理派
純理派(doctrinaires、ドクトリネール)は、復古王政初期、ユルトラに反対して穏健な王政への回帰を主張した。主要人物にはピエール=ポール・ロワイエ=コラール、フランソワ・ギゾー、セール伯爵らがおり、機関紙はル・クーリエ・フランセ (Le Courrier français) (フランス通信)紙、ル・サンスール (Le Censeur) (検閲者)紙だった。
独立諸派
独立諸派(indépendants、アンデパンダン)は、小ブルジョワ、医者、弁護士、商人、法曹、地方の国有財産取得者を中心とした。同派は憲章が保守的にすぎるとしてこれを拒否し、1815年の条約、白色旗、聖職者と貴族の復権に反対した。主要人物には、議会君主制論者のバンジャマン・コンスタン、帝国将校のマクシミリアン・セバスティアン・フォワ将軍、共和主義者のジャック=アントワーヌ・マニュエル弁護士、ラファイエットらがおり、機関紙はラ・ミネルヴ (La Minerve) (ミネルヴァ)紙、ル・コンスティテューショネル (Le Constitutionnel) (立憲)紙、ル・グローブ (Le Globe) (地球)紙だった。
自由派
自由派(libéraux、リベロー)は、復古王政晩年に出現し、自由と透明性の拡大、貴族階級の負担による中産階級全体の税負担の軽減を主張した。同派は産業革命で没落した貴族階級に代わり台頭してきた新興中産エリート層の利益を代表した。
共和派
共和派(républicains、レピュブリカン)は、中産階級の利益を代表する代議士とは対照的に、極左に位置して貧しい労働者階級に焦点を当てた。労働者階級の利益は代表されることも耳を傾けられることもなく、デモ活動も鎮圧・回避されたところ、労働者階級にとって議会主義の強化の意味するところは民主的変革ではなく課税拡大でしかなかった。ブランキのように革命を唯一の解決策とみなす者もいた。ガルニエ=パージェスとルイ=ウジェーヌ、ゴドフロワ・カヴェニャック兄弟は共和派を自認し、カベーとラスパイユは社会主義者として活躍した。サン=シモンもまたこの時代に活躍し、1825年に死去する前にルイ18世に直訴したこともあった[68]。
大衆文化
ローラン・ブトンナ監督、ギャスパー・ウリエル、マリ=ジョゼ・クローズ主演のフランスの歴史映画「ジャック・ソード 選ばれし勇者」は復古王政期のフランスを舞台としている。
注釈
- ^ Furet 1995, p. 282 この一環として、元教会所有森林40万ヘクタールの売却に係る債券保証関連予算の成立阻止、離婚禁止の再導入、トリコロールの所持を発見された者の死刑要求、身分登録(戸籍)業務の教会簿への奪還計画などが行われた[26]。
- ^ 「ローヤル・タッチ (royal touch) 」と呼ばれる風習で、イギリスやフランスの国王が盛んに行ったことで知られる。アナール学派の歴史家マルク・ブロックの著書 Les Rois Thaumaturges (1924) (邦訳として『王の奇跡 : 王権の超自然的性格に関する研究/特にフランスとイギリスの場合』井上泰男・渡邊昌美共訳、刀水書房、1998年、ISBN 9784887082311)に詳しい。
出典
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