フェルディナンド・マゼラン
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世界周航
出帆の時
マゼランの艦隊は王の命令通り1519年8月10日にセビリアを出発する。しかし、準備が整っていない艦隊は120キロメートル先のサンルーカル・デ・バラメーダ港に留まって準備を終え、1519年9月20日にいよいよ航海に旅立つ。艦隊はカナリア諸島に立ち寄り、そこからマゼランは南に進路を取った。予定の航路は南西であり、南に向かうマゼランの指示は当初の計画からは外れていたが[注 15]、これに、艦隊の総監察官でサン・アントニア号の船長でもあるスペイン人のフアン・デ・カルタヘナが異議を唱えた。マゼランはカルタヘナの異議を無視し、反抗的な態度を取ったカルタヘナを逮捕する。マゼランはサン・アントニオ号の船長にスペイン人の経理官アントニオ・デ・コカを一旦当てたがまもなく更迭し、ポルトガル人でマゼランの従兄弟のメスキータを任命する。やがて南西に進路を取った艦隊は12月13日、現在のリオ・デ・ジャネイロ地方に到着する。リオ・デ・ジャネイロ地方でマゼランたちは裸族トゥピナンパ族と出会う。ピガフェッタによるとトゥピナンパ族は人食いの習慣を持ち、男女ともに裸で恥部も隠さず、全身に着色し、オウムの羽で作った腰飾りを付け、男は下唇に穴を開けそこに顔飾りの石をはめ込んでいる。トゥピナンパ族は16世紀ではカニバリ(人食い族)と呼ばれる人々であったが、マゼランたちはトゥピナンパ族とは極めて友好的な交友を持ったようで、住民が多く参加するミサも2回行い(トゥピナンパ族がキリスト教を信仰したわけではない)、トゥピナンパ族はマゼランたちが長期滞在できるようにマゼランたちのための家も建てている[56]。 ピガフェッタはトゥピナンパ族女性のあるエピソードを書き残している。
ある日のことである。私が旗艦にいるとき一人の美しい若い女性がやってきた。あてずっぽうな目的で来たらしかったが、副長の部屋を眺めやると、指よりも長い1本の釘が落ちているのに気が付いた、女はひどくうれしそうにして上手にそれを拾い、陰唇のあいだにそれを差し込み、深くお辞儀をしてすぐ帰っていった。総司令官も私もこの情景を眺めていた。 — 増田(1993)、p.117
パタゴニアと反乱
リオ・デ・ジャネイロ地方を後にした艦隊は香料諸島へ通じる海峡を探して南アメリカ東岸を南下する。ソリスも探索しおそらくは海峡でなく川であろうと結論したラプラタ川をマゼランは探るがやはり海峡ではなく、さらに南下しパタゴニアのサン・フリワン湾に到達する。厳しいパタゴニアの冬を迎えしばらく停泊している艦隊にマゼランは食料の節約を命ずる。しかし、豊かで友好的な交流を持ったリオ・デ・ジャネイロ地方での良い経験に比べ厳しく寂しいパタゴニアでの停泊に船員達には不満がつのっていった。その雰囲気の中でスペイン人幹部が反乱を起こす。航海出発早々マゼランと衝突し逮捕された艦隊の総監察官でサン・アントニア号の元船長でもあるスペイン人カルタヘナは同じスペイン人のガスパル・デ・ケサーダが船長を務めるコンセプシオン号に囚われていたが、ケサーダおよびサン・アントニオ号の前船長のスペイン人コカと謀ってサン・アントニオ号を急襲、ポルトガル人船長メスキータを拘束し副長を殺してサン・アントニオ号を手中にする。さらにビクトリア号のスペイン人船長も加わって5隻の内3隻が反乱側に付く事態となった。しかしスペイン人幹部は反乱は起こしたもののスペイン王の信任で総司令官の地位にあるマゼランを完全に退けることも躊躇しているうちに、マゼランはすばやく反撃、ビクトリア号の船長を刺殺して反乱を制圧する。反乱の首謀者カルタヘナと加担した司祭は追放、ケサーダを斬首、その他反乱側は鎖につながれ船の補修作業に従事させ反乱を収めた。これ以降スペイン人はしぶしぶマゼランに従うが、マゼランへの反感は根強く残り、後にフィリピン・マクタン島でマゼランが敵の大軍に囲まれているときにスペイン人は救援を出さずマゼランを見殺しにすることになる[57][58]。反乱を収めた後、停泊中のマゼランたちはピガフェッタが巨人と呼ぶ原住民に出会う。マゼランは彼らにパタゴンと名付けるが[59]、これはパタゴニアの地名の由来となっている。
艦隊は1520年8月24日に航海を再開、香料諸島へ通じる海峡を探してさらに南下を続けるが、それまでの調査航行中にサンティアゴ号が難破して失われてしまった[60]。
そして1520年10月21日、ついに西の海へと抜ける海峡を発見した。これは後にマゼランの名前をとってマゼラン海峡と呼ばれることになる。しかしマゼラン海峡を抜ける途中で艦隊最大の船であったサン・アントニオ号(エステバン・ゴメスが航海長である)がはぐれた。サン・アントニオ号の船長メスキータはあくまで艦隊を探し合流することを主張したが航海長ゴメスが反対して船長を拘束、艦隊に残る食料の多くを積んだまま、スペインに引き返し、1521年5月6日スペインに帰国した[注 16]。艦隊は2年分積み込んだはずの食料が2重に領収する手違いもあってマゼラン海峡の途中時点で既に残り3ヶ月分しかなく、ゴメスはたった3ヶ月分の食料で未知の海洋に乗り込むことを恐れ反対したがマゼランに退けられてマゼランへの反抗心を持ち、サン・アントニオ号が艦隊とはぐれたことをきっかけにスペインへの帰国を主張したゴメスを乗組員も支持したものとされている[61]。世界周航達成後にこのことを知ったピガフェッタはその背景にゴメスが一度は手にしそうになった艦隊の指揮権をマゼランに取られたことで憎しみを持っていたからだと推測している[62]。
マゼランの艦隊がマゼラン海峡を進むと左側の島でおびただしい数の火が見えた。マゼランたちは艦隊を見つけたこの地方の住民がたがいに合図の烽火を上げているのだろうと推測している。しかし、マゼランたちは住人の姿は見ていない[63]。このエピソードから後にティエラ・デル・フエゴ(火の島)と名付けられたこの島は人が住む世界最南端の地である。
ゴメスの反乱でサン・アントニオ号が勝手に帰国してしまい艦隊は3隻となってしまったが、そのことを知らないマゼランは海峡のなかでサン・アントニオ号が戻ってくるのを待つ。待っている間に海峡の前途に小艇を偵察に出すが、3日後に戻ってきた小艇は海峡を抜けたところに広大な海を見つけたと報告する。マゼランはついに大西洋から太平洋につながる航路を発見したのだった。ピガフェッタは「提督は喜びのあまりはらはらと涙を流し、水路の出口の岬を「待望の岬」と命名した-ピガフェッタ(2011)、p.49」と伝えている。やがてサン・アントニオ号の捜索をあきらめた艦隊は先に進み11月28日ついに太平洋に到達する[64]。狭いが複雑に入り組んだ海峡を慎重に探りながら進んだことと、勝手に帰国したサン・アントニオ号をはぐれてしまったのだと思って待ち続けたことで海峡を抜けるのに1ヶ月以上もかかってしまった。
太平洋
太平洋に出たマゼランはしばらくはチリ沿岸に沿って北へ進みやがて北西に進路をとる。海面は穏やかであったが食料を補給できる島にめぐり合わなかった太平洋での航海をピガフェッタは次のように記録している。
1520年11月28日水曜日にわれわれはあの海峡から抜け出て、太平洋のまっただ中に突入した。3ヶ月と20日のあいだ新鮮な食べ物は何ひとつ口にしなかった。ビスコット(乾パン)を食べていたが、これはビスコットというよりむしろ粉クズで、虫がうじゃうじゃ沸いており良いところはみな虫に食い荒されていた。そして、ネズミの小便の臭いがむっと鼻につくようなしろものだった。日数がたちすぎて腐敗し黄色くなった水を飲んだ。また、主帆柱の帆桁に張り付けてあった牛の皮さえも食べた。(中略) それからまたわれわれはオガクズもしばしば食べた。ネズミは半デュカート(当時の金貨)の値段がつけられ、しかもなかなか手に入らなかった — ピガフェッタ(2011)、p.60
太平洋の航海でマゼラン艦隊では19人の乗組員とブラジルで乗せたインディオ、パタゴニアで乗せたパタゴンが壊血病と栄養失調で死んでいる。トゥアモトゥ諸島やライン諸島の無人島をいくつか通り過ぎ、餓死寸前のマゼランの艦隊は1521年3月6日、マリアナ諸島のグアム島にたどり着いた。ピガフェッタによるとグアム島に着き、上陸の準備をしていた艦隊を島民の小船多数が取り巻き、さらに船に島民が忍び込んできて手当たり次第に装備品を盗んでいった。それに酷く立腹したマゼランは武装兵40人を上陸させ島民を7人殺害し家屋を40から50軒焼き払い、島にラドローネス諸島(Islas de los Ladrones 泥棒諸島)と名付けたとされる。トランシルヴァーノは曖昧な記述しかしていない[注 17][65]。1521年3月9日泥棒諸島を後にした後、マゼランたちは1週間後の3月16日にフィリピン諸島に到達した。
フィリピン諸島
フィリピン諸島での最初の寄港地には安全な無人島(ホモンホン島)を選んだ。翌3月18日、初めてフィリピン人つまり近くのスルアン島の住人に出会うが、マゼラン達は出会ったフィリピン人を「ものの道理が分かる人」と評価している。つまり王の元での秩序ある社会を築き、文化を持っている人々とみなした[66]。3月28日にはレイテ島付近で出会ったフィリピン人にマゼランの奴隷であるマレー人エンリケが試しに呼びかけるとマレー語で答えが返ってきた。マレー人と交流のある地域に達したのだった。この後、レイテ島南端沖のリマサワ島で王コランプ[注 18]に出会うが、コランプはマレー語に通じ、エンリケの通訳を介して会話が可能[注 19]になったマゼランとコランプは親密になりコランプは食料、マゼランは赤と黄色のトルコ服、赤い帽などを贈りあう。マゼランとコランプはリマサワ島でフィリピン最初のミサをあげ十字架を立てている。さらにコランプは艦隊が補給をするのに最適な地としてセブ島を紹介し案内する。4月7日セブ島に達したマゼランはまずは大砲を撃ってセブ島民を驚かせ、上陸したマゼランはセブ王が付近の王(首長)たちの中でも有力であることを見て熱心に布教を始める。マゼランが熱心に説くキリスト教の教えにセブ王をはじめ500人が洗礼を受けた。また、マゼランとセブ王は何度も抱き合うほど親しくもなり、このことに気を良くしたマゼランはセブ島周辺の王(首長)たちにもキリスト教への改宗と(先にキリスト教徒になった)セブ王への服従を要求するようになる。現地の政治情勢に到着したばかりのマゼランが首を突っ込んでしまった[注 20][67]。
マゼランの死
セブ島に3週間滞在しセブ王の王宮にもたびたび招かれ食料を補給し多くのセブ島民を改宗させたマゼランだが、何故か目的の香料諸島へ向かわず布教を続けている。セブ島民を改宗させたことで気をよくしたマゼランは強硬になり布教に当たって武力をちらつかせるようになっている。セブ島周辺の王たちのほとんどはマゼランに従ったが、改宗と服従を強要するためにセブ島対岸の小島マクタン島では町を焼くこともしている。このことでマクタン島民は反感をつのらせたようである。その後マゼランは4月27日マクタン島に突然出撃した。ピガフェッタによると、マクタン島の王の一人ズラは「マゼランの要求に従う気はあるが、もう一人の王ラプ=ラプ[注 21]が従わないので困っている。小艇に兵を満載して救援に来てほしい」と伝えてきたからだとしている。これを聞いたマゼランはラプ=ラプ王を従わせようと3隻の小艇に60名の兵を乗せてマクタン島に乗り込んだのだが、ラプ=ラプ王は既にこれを察知しており、60名の内11名を小艇の警護に残して上陸したマゼランの49人に対して1500人の軍勢を配置していた[注 22]。しかしマゼランは圧倒的に多数の敵を前にして部下に
諸君、われらの敵であるこれらの住民たちの数に恐れをなしてはならない。神が我らを助け給うであろうから。諸君、思い出すがよい、あのエルナン・コルテス隊長がユカタン地方で、200人のエスパニャ人でもって、しばしば20万、30万の住民たちを打ち破ったということを我々が耳にしたのはつい最近のことではないか — ピガフェッタ(2011)、pp.303 f
と演説し、寡兵にもかかわらず戦闘に突入。しかし、30倍の数の敵に対しマゼランの兵はやがて敗走、マゼランの周りにはピガフェッタやエンリケを含め6から8人ほどが踏みとどまって戦うだけになる。多勢のラプ=ラプ王の兵の竹槍はマゼランたちの甲冑に通じず戦いは1時間に及んだが、ラプ=ラプ勢は防具をつけていない足に攻撃を集中し始め、遂にマゼランは戦死する[68]。
注釈
- ^ スペインでは史上初の世界一周の名誉は、(途中で死に、またスペインにとって外国人である)マゼランではなく、最後まで生き残ったビクトリア号のスペイン人船長フアン・セバスティアン・エルカーノらに与えられている。
- ^ マゼラン遠征についてもっとも詳細で著名な報告をしたのは艦隊の乗組員で世界一周を達成してスペインに生還したイタリア人アントニオ・ピガフェッタである。ピガフェッタの記録については#マゼランの記録を参照のこと。
- ^ マゼランの記録は確実なものは少ないが、諸説の中には1505-1513年、ポルトガル艦隊の一員として東洋の長期滞在中にフィリピンに到達していて(ポルトガルから東回りでフィリピン)、1519年からの遠征でのフィリピン到達(スペインから西回りでフィリピン)、つまり2つの航海をあわせて世界一周をなしとげている可能性があるという説もある。
- ^ ツヴァイクの伝記など後年の通説ではマゼランが到達した大洋でマゼランは一度も嵐に合うことなく渡り切り、太平な海であることからマゼランが「太平洋」と命名したとなっている-ツヴァイク(1972)、p.203。が、しかし、マゼラン艦隊の唯一の生き残り艦であるビクトリア号が帰国してまもなくエルカーノら乗組員からスペイン王の秘書トランシルヴァーノが聞き取りまとめた調書には太平洋と言う言葉はなく、エルカーノらは彼らが航海した大洋をバルボアが命名したのと同じMar del Sur「南の海」と呼び太平洋とは呼んでいない-ピガフェッタ(2011)、pp.292-297。ピガフェッタはその記録でマゼランや自分達が航海した大洋をMare Pacifico「太平洋」と呼んでいるが、ピガフェッタの記録にはマゼランが太平洋と命名したとの記述はない-ピガフェッタ(2011)、pp.15-254。太平洋の命名者がマゼラン艦隊の誰かであるのは確実であるが、それがマゼランなのかピガフェッタなのかそれともそれ以外のだれかなのかは分からない。
- ^ この性格のため、後々マクタン島で数千の敵に対し数十人で正面から戦いを挑み、戦死することになる。
- ^ ピガフェッタによるとマゼランの要求は月俸の1テストーネの増額であり、それは銀貨1枚にすぎない-ピガフェッタ(2011)、p.169。1938年に出版されたツヴァイクのマゼランの伝記によればマゼランの月俸増額の要求は月に半クルサードであり、それは1938年のイギリスの1シリングに相当する。イギリスポンドが強かった時代の1シリング=1/20ポンドとは言え、1シリングはやはり銀の硬貨1枚に過ぎない。-ツヴァイク(1972)、p.64
- ^ ソリスは現地部族民に殺され、ソリスの探検は失敗に終っている。
- ^ ゴメスは後にマゼランの下でサン・アントニオ号の航海長となるが、ゴメスはパタゴニアで反乱を起こし、サン・アントニオ号はマゼラン艦隊を離脱することになる。
- ^ この当時のヨーロッパ人の世界観は南北アメリカ大陸を東アジア東端の大半島と捉え、太平洋を大半島の西の内海と捉えるものであった。ポルトガルの王室付き地図製作者のマルティン・ベハイムが作成した地球儀もその世界観で作られたものであったが、そのべハイムが作成した地球儀をみたマゼランもその世界観にとらわれていたのである。のちにマゼランは太平洋の広大さを身をもって知ることになる。-イアン・カメロン(1978)、pp.48 f
- ^ 航海の実務を知らないファレイロをマゼラン自身が外したがったという説もある。
- ^ スペイン王の秘書トランシルヴァーノの記録では、最終的にはスペイン王が費用を出したとしている。ただし、トランシルヴァーノはあくまでスペイン王側の人間である。1522年ビクトリア号が持ち帰った香料はアロが扱っている。
- ^ マゼランに関する最も著名なツヴァイクの伝記など各種の伝記ではマゼラン艦隊の総員を265人としているものが多い。またセビリアのインディアス総合古文書館に残るマゼラン艦隊の乗組員名簿はいくつかあり、数字はそれぞれ若干違いがあるが270から280人程度とされる。乗組員のなかでもっとも多いのはスペイン人だが、ポルトガル人37人、イタリア人30人以上などヨーロッパ各地の人々や少数であるがアジア人アフリカ人も含まれている。マゼラン遠征についてもっとも有名な報告をした艦隊の乗組員ピガフェッタはその遠征の記録の中で「我々は総勢237人」としているが、「我々」の定義は不明である。スペイン王がマゼランに指示した艦隊の定員は230-235人であり、員数外の(特にマゼランと同国のポルトガル人が)相当数いて265人以上だったのは確実である。-伊東(2003)、pp.82-83、ツヴァイク(1962)、p.120、合田(2006)、p.157
- ^ ただし、実際には物品は帳簿上で2重に領収しており、実際にはこの半分しか乗せていないことが、後にわかる。
- ^ 艦隊はアジアでたくさんの王と出会う。明細には無いが、ピガフェッタによると各地の王や王族、大臣などに派手な服や同じく派手な色の帽子、金のコップ、様々な布地、帳面、首飾り、肘掛け椅子など実に様々な物を贈っている。特に派手な色の服や派手な色の帽子、金のコップ、様々な派手な色の布地は沢山用意していったようで各地の王や王族には大抵贈っている。
- ^ ポルトガルの追撃を避けるためだったとか、風を読んだとも、ポルトガルの領域を避けるためであったとも言われるが、マゼランはスペイン人たちに黙って従うように要求し航路についての説明をしていない。説明がないことにスペイン人たちのマゼランへの反感はますます高まるのであった。-増田(1993)、pp.102 f
- ^ なお、この船は引き返す途中にサン・アントン諸島、後のフォークランド諸島を発見している。
- ^ 非友好的で暴力的な出会いにもかかわらず、ピガフェッタはマリアナ諸島民の住居や暮らし、島の食品について詳しく書き残している、しかし島民の住居や島の食品について言及し餓死寸前であったにもかかわらずピガフェッタはマリアナ諸島での自分達の食料の入手方法について書いていない。艦隊がマリアナ諸島を後にする際の島民たちの非友好的で攻撃的な様子もピガフェッタは強調している。マゼランやピガフェッタはマリアナ諸島の島民を泥棒呼ばわりしているが、島民が泥棒ならばおそらくマゼラン達は強盗殺人犯であろう。どちらが先に手を出したのかはわからない。リオ・デ・ジャネイロのトゥピナンパ族とは友好的な出会いをしたマゼランたちであるが、パタゴニアではパタゴンを誘拐、マリアナ諸島では餓死寸前の状況とはいえ強盗殺人である。ピガフェッタによるとマゼランは次に出会うフィリピン人を「ものの道理の分かる人」つまり理知的な人々と認めたが、逆に南米やマリアナ諸島の人のことは「理知的な人々とは認識していなかった」のであろう。マゼランの死後、フィリピンとボルネオの中間パラワン島で艦隊はたまたま出合った人を人質に取り食料を要求し、ティモール島でも人質を取り身代金として食料を要求している。つまり営利誘拐もしているが、その様子を報じているピガフェッタは悪びれた様子も無く、むしろ無邪気である-ピガフェッタ(2011)、pp.157-158。艦隊はフィリピンから香料諸島への間で海賊行為も多数行っている-合田(2006)、p.204。ただし、異教徒への海賊行為はマゼラン艦隊だけでなく、この時代のスペインやポルトガルの航海者は普通に行っている。中世人の倫理観は21世紀の現代人とは同じではない。
- ^ ピガフェッタは王と呼んでいるが、当時のフィリピンには中央政府はなく多くの首長がそれぞれ小さな領地を治めていた。ピガフェッタの記録にはフィリピンだけでもたくさんの王が登場する。
- ^ トランシルヴァーノはエンリケと王の間にもうひとり通訳が入ったと書いている。
- ^ セブ王の改宗とマゼランへの行為が本心からのものか、それともスペイン人の武力を取り入れるためのものだったのかは分からない。そもそも、聖職者ではないマゼランによる、エンリケの通訳を介しての布教で、セブ王がどの程度キリスト教の教義を理解して、改宗したかも不明である。
- ^ ピガフェッタはラプ=ラプの名をセラプラプもしくはシラプラプと書いている。
- ^ ピガフェッタによる。ピガフェッタ自身、このときの戦闘に加わっており負傷している。ピガフェッタはマゼランの最後を見ていたとされる。トランシルヴァーノの調書ではマゼランの兵は40人、敵は3000人としており、マゼランは味方であるセブ人に手を出さず自分たちの戦闘を見ているように指示したとのことである。一説では船に残っていたスペイン人は圧倒的多数の敵に取り囲まれているマゼランを見ながら救援を出そうとしなかったという。出航以来の反感が出たのかもしれない。-イアン・カメロン(1978)、p.158
- ^ マゼランが出航前に残した遺書では、マゼランの死後、エンリケは解放し、一定の遺産を与えることになっている。マゼランの生前は忠実にマゼランに仕え、マゼランの戦死の際もマゼランと一緒に戦って負傷しているエンリケである。-ツヴァイク(1972)、p.131、ピガフェッタ(2011)、pp.122 f
出典
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