フェルディナンド・マゼラン マゼランの記録

フェルディナンド・マゼラン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/25 23:53 UTC 版)

マゼランの記録

マゼランの業績について語る一次史料は多くはないが以下の物が主だった記録である。

アントニオ・ピガフェッタ『最初の世界周航の報告書』
マゼラン艦隊に同行したイタリア人ヴェネツィア共和国ヴィチェンツァの貴族ピガフェッタによるもの。帰国後ローマ法王の薦めもありマゼラン艦隊の記録を書く。これが改竄を受けながらもヨーロッパ中で発行され広く読まれたものと思われている。後年の伝記作家や研究者はピガフェッタの記録を中心にマゼランの航海を考察している。ピガフェッタの記録は岩波文庫2011年、や岩波書店、大航海時代叢書『航海の記録』1965年などが和訳全文を刊行し、2011年岩波文庫版で240ページほどの記録である。
トランシルヴァーノの調書
スペイン王の秘書トランシルヴァーノが航海直後、フアン・セバスティアン・エルカーノら乗組員3名からの聞き取り調査をまとめたもの。マゼラン寄りのピガフェッタがマゼランとスペイン人の対立に関しては言葉を濁しているのに比べ、パタゴニアでは反乱側であったエルカーノではあるが、トランシルヴァーノの調書は反乱に関しては赤裸々に書いている。トランシルヴァーノの調書も岩波文庫2011年でピガフェッタの記録とあわせて和訳刊行されており、2011年岩波文庫版で78ページの記録である。
アルボの航海日記
アルボはビクトリア号の航海長:航海日記であるだけに客観的な記録である。航路などのデータに関してはピガフェッタより信頼されている。
セビリアのインディアス総合古文書館
インディアス総合古文書館には乗組員名簿や積荷のリスト、王の命令書、各種の公文書などマゼラン艦隊に関する公的な書類が多く残されている。

注釈

  1. ^ スペインでは史上初の世界一周の名誉は、(途中で死に、またスペインにとって外国人である)マゼランではなく、最後まで生き残ったビクトリア号のスペイン人船長フアン・セバスティアン・エルカーノらに与えられている。
  2. ^ マゼラン遠征についてもっとも詳細で著名な報告をしたのは艦隊の乗組員で世界一周を達成してスペインに生還したイタリア人アントニオ・ピガフェッタである。ピガフェッタの記録については#マゼランの記録を参照のこと。
  3. ^ マゼランの記録は確実なものは少ないが、諸説の中には1505-1513年、ポルトガル艦隊の一員として東洋の長期滞在中にフィリピンに到達していて(ポルトガルから東回りでフィリピン)、1519年からの遠征でのフィリピン到達(スペインから西回りでフィリピン)、つまり2つの航海をあわせて世界一周をなしとげている可能性があるという説もある。
  4. ^ ツヴァイクの伝記など後年の通説ではマゼランが到達した大洋でマゼランは一度も嵐に合うことなく渡り切り、太平な海であることからマゼランが「太平洋」と命名したとなっている-ツヴァイク(1972)、p.203。が、しかし、マゼラン艦隊の唯一の生き残り艦であるビクトリア号が帰国してまもなくエルカーノら乗組員からスペイン王の秘書トランシルヴァーノが聞き取りまとめた調書には太平洋と言う言葉はなく、エルカーノらは彼らが航海した大洋をバルボアが命名したのと同じMar del Sur「南の海」と呼び太平洋とは呼んでいない-ピガフェッタ(2011)、pp.292-297。ピガフェッタはその記録でマゼランや自分達が航海した大洋をMare Pacifico「太平洋」と呼んでいるが、ピガフェッタの記録にはマゼランが太平洋と命名したとの記述はない-ピガフェッタ(2011)、pp.15-254。太平洋の命名者がマゼラン艦隊の誰かであるのは確実であるが、それがマゼランなのかピガフェッタなのかそれともそれ以外のだれかなのかは分からない。
  5. ^ この性格のため、後々マクタン島で数千の敵に対し数十人で正面から戦いを挑み、戦死することになる。
  6. ^ ピガフェッタによるとマゼランの要求は月俸の1テストーネの増額であり、それは銀貨1枚にすぎない-ピガフェッタ(2011)、p.169。1938年に出版されたツヴァイクのマゼランの伝記によればマゼランの月俸増額の要求は月に半クルサードであり、それは1938年のイギリスの1シリングに相当する。イギリスポンドが強かった時代の1シリング=1/20ポンドとは言え、1シリングはやはり銀の硬貨1枚に過ぎない。-ツヴァイク(1972)、p.64
  7. ^ ソリスは現地部族民に殺され、ソリスの探検は失敗に終っている。
  8. ^ ゴメスは後にマゼランの下でサン・アントニオ号の航海長となるが、ゴメスはパタゴニアで反乱を起こし、サン・アントニオ号はマゼラン艦隊を離脱することになる。
  9. ^ この当時のヨーロッパ人の世界観は南北アメリカ大陸を東アジア東端の大半島と捉え、太平洋を大半島の西の内海と捉えるものであった。ポルトガルの王室付き地図製作者のマルティン・ベハイムが作成した地球儀もその世界観で作られたものであったが、そのべハイムが作成した地球儀をみたマゼランもその世界観にとらわれていたのである。のちにマゼランは太平洋の広大さを身をもって知ることになる。-イアン・カメロン(1978)、pp.48 f
  10. ^ 航海の実務を知らないファレイロをマゼラン自身が外したがったという説もある。
  11. ^ スペイン王の秘書トランシルヴァーノの記録では、最終的にはスペイン王が費用を出したとしている。ただし、トランシルヴァーノはあくまでスペイン王側の人間である。1522年ビクトリア号が持ち帰った香料はアロが扱っている。
  12. ^ マゼランに関する最も著名なツヴァイクの伝記など各種の伝記ではマゼラン艦隊の総員を265人としているものが多い。またセビリアインディアス総合古文書館に残るマゼラン艦隊の乗組員名簿はいくつかあり、数字はそれぞれ若干違いがあるが270から280人程度とされる。乗組員のなかでもっとも多いのはスペイン人だが、ポルトガル人37人、イタリア人30人以上などヨーロッパ各地の人々や少数であるがアジア人アフリカ人も含まれている。マゼラン遠征についてもっとも有名な報告をした艦隊の乗組員ピガフェッタはその遠征の記録の中で「我々は総勢237人」としているが、「我々」の定義は不明である。スペイン王がマゼランに指示した艦隊の定員は230-235人であり、員数外の(特にマゼランと同国のポルトガル人が)相当数いて265人以上だったのは確実である。-伊東(2003)、pp.82-83、ツヴァイク(1962)、p.120、合田(2006)、p.157
  13. ^ ただし、実際には物品は帳簿上で2重に領収しており、実際にはこの半分しか乗せていないことが、後にわかる。
  14. ^ 艦隊はアジアでたくさんの王と出会う。明細には無いが、ピガフェッタによると各地の王や王族、大臣などに派手な服や同じく派手な色の帽子、金のコップ、様々な布地、帳面、首飾り、肘掛け椅子など実に様々な物を贈っている。特に派手な色の服や派手な色の帽子、金のコップ、様々な派手な色の布地は沢山用意していったようで各地の王や王族には大抵贈っている。
  15. ^ ポルトガルの追撃を避けるためだったとか、風を読んだとも、ポルトガルの領域を避けるためであったとも言われるが、マゼランはスペイン人たちに黙って従うように要求し航路についての説明をしていない。説明がないことにスペイン人たちのマゼランへの反感はますます高まるのであった。-増田(1993)、pp.102 f
  16. ^ なお、この船は引き返す途中にサン・アントン諸島、後のフォークランド諸島を発見している。
  17. ^ 非友好的で暴力的な出会いにもかかわらず、ピガフェッタはマリアナ諸島民の住居や暮らし、島の食品について詳しく書き残している、しかし島民の住居や島の食品について言及し餓死寸前であったにもかかわらずピガフェッタはマリアナ諸島での自分達の食料の入手方法について書いていない。艦隊がマリアナ諸島を後にする際の島民たちの非友好的で攻撃的な様子もピガフェッタは強調している。マゼランやピガフェッタはマリアナ諸島の島民を泥棒呼ばわりしているが、島民が泥棒ならばおそらくマゼラン達は強盗殺人犯であろう。どちらが先に手を出したのかはわからない。リオ・デ・ジャネイロのトゥピナンパ族とは友好的な出会いをしたマゼランたちであるが、パタゴニアではパタゴンを誘拐、マリアナ諸島では餓死寸前の状況とはいえ強盗殺人である。ピガフェッタによるとマゼランは次に出会うフィリピン人を「ものの道理の分かる人」つまり理知的な人々と認めたが、逆に南米やマリアナ諸島の人のことは「理知的な人々とは認識していなかった」のであろう。マゼランの死後、フィリピンとボルネオの中間パラワン島で艦隊はたまたま出合った人を人質に取り食料を要求し、ティモール島でも人質を取り身代金として食料を要求している。つまり営利誘拐もしているが、その様子を報じているピガフェッタは悪びれた様子も無く、むしろ無邪気である-ピガフェッタ(2011)、pp.157-158。艦隊はフィリピンから香料諸島への間で海賊行為も多数行っている-合田(2006)、p.204。ただし、異教徒への海賊行為はマゼラン艦隊だけでなく、この時代のスペインやポルトガルの航海者は普通に行っている。中世人の倫理観は21世紀の現代人とは同じではない。
  18. ^ ピガフェッタは王と呼んでいるが、当時のフィリピンには中央政府はなく多くの首長がそれぞれ小さな領地を治めていた。ピガフェッタの記録にはフィリピンだけでもたくさんの王が登場する。
  19. ^ トランシルヴァーノはエンリケと王の間にもうひとり通訳が入ったと書いている。
  20. ^ セブ王の改宗とマゼランへの行為が本心からのものか、それともスペイン人の武力を取り入れるためのものだったのかは分からない。そもそも、聖職者ではないマゼランによる、エンリケの通訳を介しての布教で、セブ王がどの程度キリスト教の教義を理解して、改宗したかも不明である。
  21. ^ ピガフェッタはラプ=ラプの名をセラプラプもしくはシラプラプと書いている。
  22. ^ ピガフェッタによる。ピガフェッタ自身、このときの戦闘に加わっており負傷している。ピガフェッタはマゼランの最後を見ていたとされる。トランシルヴァーノの調書ではマゼランの兵は40人、敵は3000人としており、マゼランは味方であるセブ人に手を出さず自分たちの戦闘を見ているように指示したとのことである。一説では船に残っていたスペイン人は圧倒的多数の敵に取り囲まれているマゼランを見ながら救援を出そうとしなかったという。出航以来の反感が出たのかもしれない。-イアン・カメロン(1978)、p.158
  23. ^ マゼランが出航前に残した遺書では、マゼランの死後、エンリケは解放し、一定の遺産を与えることになっている。マゼランの生前は忠実にマゼランに仕え、マゼランの戦死の際もマゼランと一緒に戦って負傷しているエンリケである。-ツヴァイク(1972)、p.131、ピガフェッタ(2011)、pp.122 f

出典

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