ピエール=ジョゼフ・ルドゥーテ ピエール=ジョゼフ・ルドゥーテの概要

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ピエール=ジョゼフ・ルドゥーテ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/01 12:58 UTC 版)

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ピエール=ジョゼフ・ルドゥーテ
生誕 (1759-07-10) 1759年7月10日
サン=テュベール
死没1840年6月20日(1840-06-20)(80歳)
パリ

「バラの画家」

ルドゥーテの植物画。バラの一種「ロサ・ケンテフォーリア」とアネモネとクレマチス。

ナポレオン1世皇后ジョゼフィーヌマルメゾン城にバラ園を営み、世界中からバラを蒐集していることを知ったルドゥーテはバラの絵を描くことを思い立ち、ジョゼフィーヌからバラ園の出入りの許可を得た。以来、ルドゥーテはマルメゾン城のバラや他の植物の絵を描くことになった[2]

ルドゥーテはいくつかの植物図譜を著すが、その中でも「バラ図譜(Les Roses)」は最高傑作と言われる。

「バラ図譜」はジョゼフィーヌの死後の1817年から1824年にかけて全3巻に分けて出版される。「バラ図譜」には169種のバラが精密に描かれ、芸術的価値だけではなく植物学上も重要な資料となっている。

「バラ図譜」の原画は1837年にベリー公妃マリー=カロリーヌの口利きで国家に買い上げられることとなるが、1871年のルーブルの図書館の火災で消失したと言われている。

人生

祖先はネーデルラントの騎士だったが、芸術家を多く輩出する家系であり、職業画家となる人物が多かった。 ジョゼフの父は宗教画家、兄弟は装飾画家を務めており、幼い頃から絵に親しんでいた。 10代後半からパリにある兄の工房で装飾画家を務めていたが、植物画家ヘーラルト・ファン・スパーンドンクに才能を見出され、技術を学び、植物学者シャルル=ルイ・レリチエ・ド・ブリュテルの著作「新種植物の記述」の挿絵を手がけたことから博物画(植物画)の世界に入った。 ルドゥーテの植物画は絵の正確さから、園芸家などからも支持を集めた。 王妃の蒐集室付素描画家、自然史博物館付植物画家、自然史博物館付図画講師を歴任し、金銭的には恵まれていたが、浪費癖があったため生活はしばしば困窮し、死の直前には銀食器まで売り払うほどだった。

略歴

  • 1759年 南ネーデルラント(現ベルギー)に生まれる
  • 1784年-1785年 「新種植物の記述」出版。挿絵を担当する
  • 1789年 王妃の蒐集室付素描画家の称号を得る
  • 1793年 自然史博物館付植物画家となる
  • 1802年-1816年 「ユリ科植物図譜」出版
  • 1817年-1821年 「バラ図譜」出版
  • 1822年 自然史博物館付図画講師となる
  • 1827年-1833年 「名花選」出版
  • 1840年 没
  • 1843年 「王家の花束」出版

作品

著書

現在一般に入手できる著作(「バラ図譜」はレプリカでも高額である)は以下のもの。




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