ピエール=ジュール・ジョリヴェとは? わかりやすく解説

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ピエール=ジュール・ジョリヴェ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/17 00:13 UTC 版)

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ピエール=ジュール・ジョリヴェ
Pierre-Jules Jollivet
Adolphe Dallemagneによる肖像画
生誕 1794年6月26日
フランス,パリ
死没 1871年9月7日
フランス,パリ

ピエール=ジュール・ジョリヴェ(Pierre-Jules Jollivet、1794年6月26日 - 1871年9月7日)はフランスの画家、版画家である。風俗画や歴史画を描いた。

生涯

パリに生まれた。初め建築をジャック=マリー・ユーヴェ(Jacques-Marie Huvé)やオーギュスト・ファマン(Auguste Famin)に学ぶが、20代後半になった1822年になって、画家の道に転じた。パリのエコール・デ・ボザールでフランソワ=ルイ・デジュアンヌ(François-Louis Dejuinne)やアントワーヌ=ジャン・グロ(Antoine-Jean Gros)に学んだ。同じ頃、ドイツ人のアロイス・ゼネフェルダーによって開発されたリトグラフ(石版画)の技術も学んだ。

リトグラフの技術を習得したことで、1826年にスペイン王フェルナンド7世の宮廷に招かれ、マドリードの宮殿の美術品の目録を出版するための図版を描く仕事をし、18枚の図版を制作した。版画の仕事が終わった後もしばらくスペインに留まり、その後パリに戻った。

パリでは、歴史画や風俗画を描き、スペインで見た情景を多く描くようになった。1831年から、サロン・ド・パリへの出展を始めた。1830年代の後半になって国王ルイ・フィリップの注文で、フランス歴史博物館のために歴史画の大作を制作し、第1回十字軍の指導者のゴドフロワ・ド・ブイヨンの事績や1794年のホーフレーデの戦いを題材に描き、フランス革命のトゥルコアンの戦いを描いた版画も制作した。

パリの教会のための宗教画も描いた。

弟子にはギュスターヴ・ブーランジェやウジェーヌ・フラマン=ドゥロルメル(Eugène Froment-Delormel)がいる。

作品

参考文献

関連図書

  •  Georges Brunel, Laves émaillées : un décor oublié du XIXe siècle, Musée de la vie romantique, Paris, 15 October 1998-17 January 1999 (exhibition catalog)



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