パーマネントウエーブ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/01 18:43 UTC 版)
パーマに関する事柄
- 日本に最初にパーマ技術を紹介したのは米国で学んだハリウッド美容室の初代メイ牛山こと牛山春子[13]。1935年頃、山野美容講習所(現山野美容専門学校)創設者、山野愛子が日本初の国産パーマ機を導入して日本にパーマ技術を普及させた[13]。
- 日本では日中戦争(支那事変)が勃発した戦時下の1930年代後半以降、過度なお洒落は贅沢行為としてパーマに反対する運動が起こり、1939年には「パーマネントはやめませう(パーマネントはやめましょう)」と言う言葉[14]が流行語にもなった。またこれと相前後して、日本の一部の地域の町会では「町会決議によりパーマネントの方は当町の通行をご遠慮ください」と言う立て看板まで設置された実例もあった[15]。アメリカ・イギリスとの関係が悪化した1940年頃からパーマネントはいわゆる敵性語として「電髪(でんぱつ)」と言い換えられる場合もあった。
- しかし、パーマネント排斥運動自体は決して完全なものではなく、日中戦争を描いた内務省と陸軍省が指導・後援する1940年4月17日公開の映画『征戦愛馬譜 暁に祈る』では、序盤にヒロインである田中絹代演ずる資産家(牧場主)の娘らがパーマをかけ洒落た服装で乗馬ピクニックをするシーンが存在している。
- さらに、太平洋戦争中の1943年に帝国陸軍の東部軍司令部が、防空情報の処理要員として採用した女性軍属たる「女子通信隊員」達が公然とパーマネントをかけた髪型で制服を着用し軍務に就いている写真がグラフ雑誌に掲載されている[16]。
- 資生堂は東京の銀座にパーマネントを施術する美容室を開業させていたが、自主的に営業を廃止したのは1943年2月15日であった[17]。
- 近年では例えばウェーブを持った髪をストレートスタイルに移行する場合にはストレートパーマと呼ぶなど、これらの化学反応を使ったスタイルチェンジ自体が「パーマ」という意味で語られることも多い。生まれつきウェーブがかかった縮毛のことを、俗に天然パーマ(テンパー)などと呼ばれる。
- 最近では国内でデジタルパーマやエアウェーブなどパーマの呼び名も多様化しているが、それらの多くは商業的な差別化を図るための単一の業者による商標名であることがほとんどで、サロン側がその名称をそのまま使用するケースも多く科学的・原理的な分類とは異なることに注意したい。
- 近畿地方を中心とする西日本では、パーマの施術を行うことを「パーマを当てる」と表現するが、東日本では「パーマをかける」と表現する。
- ^ a b 青木英夫『洋髪の歴史』雄山閣出版株式会社、1971年、101頁。
- ^ “パーマの歴史”. 日本パーマネントウェーブ液工業組合. 2021年4月25日閲覧。
- ^ メイ・牛山『近代美容法』万里閣書房、昭和3年、158頁。
- ^ “婦人画報創刊115周年記念企画 美容編・第4回-1”. 2021年4月25日閲覧。
- ^ 「ヴォガンヴォグ」『新青年』昭和7年第1号(1月号)、286頁。
- ^ 「ヴォガンヴォグ」『新青年』昭和7年第11号(9月号)、210頁。
- ^ 「ヴォガンヴォグ」『新青年』昭和8年第1号(新年特大号)、347頁。
- ^ 公益財団法人 神奈川文学振興会編『永遠に「新青年」なるもの』県立神奈川近代文学館、2021年3月、39頁頁。国立国会図書館サーチ:R100000002-I031342038。
- ^ “婦人画報創刊115周年記念企画 美容編・第4回 -2”. 2021年4月25日閲覧。
- ^ “婦人画報創刊115周年記念企画 美容編・第4回-3”. 2021年4月25日閲覧。
- ^ 坂口茂樹『日本の理髪風俗』雄山閣出版株式会社、1972年、263頁。
- ^ “婦人画報創刊115周年記念企画 美容編・第4回-5”. 2021年4月25日閲覧。
- ^ a b 『写真でみる日本生活図引』第7巻、弘文堂、 1988-1989 p21
- ^ 自粛させられたおしゃれ ポーラ文化研究所 2017年9月22日閲覧
- ^ 京成電鉄「京成電鉄85年の歩み」より。
- ^ これ、天然なんです(笑) 美しい黒髪を守る16万おまけ
- ^ パーマネント追放で資生堂美容部が廃業(昭和18年1月29日 毎日新聞(東京))『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p319
- 1 パーマネントウエーブとは
- 2 パーマネントウエーブの概要
- 3 パーマに関する事柄
- 4 外部リンク
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