パリ改造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/05 05:45 UTC 版)
詳細
エトワール凱旋門から放射状に並木が配されたアヴェニューと呼ばれる広い12本のブールヴァール(大通り)を作り、中世以来の複雑な路地を整理した。オスマンの計画によって破壊されたパリの路地裏面積は実に7分の3に上ったという。このようにして交通網を整えたことで、パリ市内の物流機能が大幅に改善された。また、二月革命で反政府勢力を助けた複雑な路地がオスマンの都市改造によって大方なくなったため、反乱が起こりにくくなった。現在では観光名所として名高いノートルダム大聖堂などがあるセーヌ川の中州に位置するシテ島は、19世紀当時においては貧民層が集まっていたが、ここもオスマンによって改善され、パリの清潔な空間の一部となった。
また、上下水道を施設し、学校や病院などの公共施設などの拡充を図った。上下水道の施設や、学校における教育により、衛生面での大幅な改善がみられ、当時流行していたコレラの発生をかなりの程度抑えることになった。
パリ改造を通して市街地がシンメトリーで統一的な都市景観になるよう、様々な手法を取った。例えば、(道路幅員に応じて)街路に面する建造物の高さを定め、軒高が連続するようにしたほか、屋根の形態や外壁の石材についても指定した。さらに当時名を馳せた建築家を登用してルーヴル宮やオペラ座(1874年竣工)などの文化施設の建設も進めた。大通りに並ぶ街灯の数も増やされ、パリ万国博覧会で訪れた日本人もその風景をたたえている。
超過収用
街路の整備にあたって超過収用の手法が取られた。当時の法令によれば、道路建設で土地収用(公共事業に必要な土地を、補償を行ったうえで強制的に公有化すること)が認められるのは、道路に必要な部分のみであるが、パリ改造では道路に加え、(条件付きではあるが)その沿道の土地も収用できる規定を適用した。そして街路や区画を整備した後、資産価値の上がった沿道の土地を売却し、事業資金に充てた。これは開発利益を還元する手法である。
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