パリ市庁舎 歴史

パリ市庁舎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/02 03:42 UTC 版)

歴史

1357年7月、パリの商人頭で実質的にはパリ市長の地位にあったエティエンヌ・マルセルが、「柱の家」と呼ばれる建物を自治体名義で購入した。 この建物は緩やかに傾斜した砂利浜に面しており、この浜は小麦や材木などの荷物を搬入するための川港として使われていた。 のちにこの場所は正方形の広場となり、グレーヴ広場 (place de Grève,「砂利広場」の意) と呼ばれた。この広場にはパリ市民が、特に公開処刑を見学するためによく集まった。1357年以降、パリ市の行政機関は、現在まで同じ場所にある。1357年以前には、パリ市の行政機関は、現在のパリ1区東側シャトレ近くの parloir aux bourgeois (ブルジョワジー集会所の意) にあった。

1533年、王のフランソワ1世は、ヨーロッパでもキリスト教世界でも最も大きな都市であるパリにふさわしい市庁舎を設置すると決めた。王は、イタリア人のドミニク・デ・コルトーネ、フランス人のピエール・シャンビージュの2人の建築家を任命した。「柱の家」は取り壊され、ルネサンスに感銘を受けていたドミニクは、高く広々とした、光に溢れる洗練された建物を設計した。建設工事は、ルイ13世統治下の1628年まで続いた。

その後200年間、市庁舎の建物自体には大きな変化はなかった。

この間、馬上槍試合アンリ2世を事故死させた後ユグノー戦争を戦ったモンゴムリ伯ガブリエル・ド・ロルジュが1574年6月26日、市庁舎前グレーヴ広場で斬首刑に処された。1757年3月28日、ロベール=フランソワ・ダミアンルイ15世への王殺し未遂の科で同広場で八つ裂きの刑で公開処刑に処された。さらにフランス革命が起こり、1789年7月14日、最後の商人頭ジャック・ド・フレッセルが、怒り狂った民衆により市庁舎前で殺害されている。またテルミドールのクーデターでは、マクシミリアン・ロベスピエールがその支持者とともに、市庁舎内で顎を撃たれて逮捕されている。

1835年になり、セーヌ知事のランビュトー伯クロード=フィリベール・バルテローの指示により、2つの翼棟が建設され、翼は正面ファサードのギャラリーに接続された。この拡張工事により、市庁舎は広々としたものになった。このときの建築家は、エティエンヌ=イポリット・ゴデ Étienne-Hippolyte Godde とジャン=バティスト・ルシュール Jean-Baptiste Lesueur であった。

1857年5月28日、マクシミリアン2世のレセプションのためにライトアップされた市庁舎。
J.フェラによるリトグラフ
パリ・コミューン後の市庁舎。

普仏戦争時には、市庁舎を舞台にいくつかの政治的事件が繰り広げられた。1870年10月30日に改革派が市庁舎に押し入り、国防政府に対し、パリ・コミューンの設立を求め、度重なる要求を行う。旧政権は、1807年に建設された地下トンネルを通って市庁舎に突入した兵士により「救出」された。このトンネルは、現在も市庁舎と近くの兵舎とを連絡している。1871年1月18日、プロイセンへの降伏を予測した群衆が抗議のため市庁舎前に集まると、兵士が市庁舎から群衆に発砲し、数人の犠牲者が出た。パリ・コミューンはパリ市庁舎をその本部に選んだ。 反コミューン派の軍が市庁舎に近づくと、コミューンの支持者が市庁舎に火をつけ、フランス革命期から当時まで残っていた公文書のほとんどが焼失した。炎は内側から市庁舎を包み、後には石造りの骨組みだけが残された。

時代が下って第二次世界大戦中の1944年8月25日には、パリの解放を目指す連合国軍とドイツ軍が市内で交戦。砲弾が市庁舎に命中し大損傷を受けた[1]


  1. ^ 市民も蜂起、パリ全市で激戦(昭和19年8月27日 毎日新聞(東京))『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p412 毎日コミュニケーションズ刊 1994年


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