ハーマン・ウォーク
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/06 20:33 UTC 版)
略歴
ハーマン・ウォークは、帝政ロシア(ミンスク)から移住したユダヤ人を両親に、1915年にニューヨーク市で生まれ、幼年時代をブロンクス地区で過ごした。
高校を卒業後、コロンビア大学に進み比較文学と哲学を専攻し、20歳の時に文学士号を取得した。彼はまずラジオ脚本家となり、"Joke Factory" でデイヴィッド・フリードマンと、その後フレッド・アレンと共に働いた。1941年にはラジオ広告で戦債を販売、合衆国政府のために働いた。
ウォークは、パールハーバー奇襲後、志願してアメリカ海軍に入隊し太平洋戦争に従軍し、「私は機械について学び、私は圧力の下、男たちがどのように行動するかを学び、そして私はアメリカ人を学んだ」と彼が後に述べる、教訓的な体験をした。彼は、掃海駆逐艦USS Zane (DD-337) に通信士官として乗艦し、その後掃海駆逐艦USS Southard (DD-207) に乗艦し、マーシャル、ソロモン、マリアナ、グアム、沖縄などで活躍し、Southardが台風で沈没した時には副官であった。彼の執筆家としてのキャリアは、その非番の時間に小説を書くことによって始まった。
ウォークはベティー・サラ・ブラウンと1945年に結婚、3人の息子を儲ける。1946年には全時間を執筆に充てるようになり、そしてデビュー小説、"Aurora Dawn"(オーロラの兆し?)を1947年に出版した。
1952年、『ケイン号の叛乱』でピューリッツァー賞を受賞。1998年、彼はシオンの守護者賞を受賞する。
ウォークは歴史小説のため、高い資格を有する若い歴史研究者たちを雇い手伝わせた。このおかげでウォークの記述する歴史は、その大部分がたいへん正確である。『ケイン号の叛乱』の最初の方のいくつかの章で描かれている、第二次世界大戦中の太平洋上のアメリカ海軍の小型艦船の乗組員たちの日常生活は、屈指の叙述と評価されている。
2019年5月17日、カリフォルニア州パームスプリングズの自宅で死去[1]。103歳没。
- ^ “米作家のハーマン・ウォークさん死去「ケイン号の叛乱」”. 朝日新聞. (2019年5月18日) 2020年9月27日閲覧。
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