テルモピュライの戦い 戦いの経過

テルモピュライの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/23 23:49 UTC 版)

戦いの経過

テルモピュライの戦いとサラミスでの動き

テルモピュライは、古くからテッサリアから中央ギリシアに抜ける幹線道路で、峻険なに挟まれた街道は最も狭い所で15メートル程度の幅しかなく、ペルシア遠征軍は主戦力である騎馬部隊を展開することが出来なかった。クセルクセスの命によってテルモピュライに突入したメディア・キッシア連合軍は、大量の戦死者を出しながらも終日に渡って戦ったが、ギリシア軍の損害は軽微なもので、彼らを敗退させることができなかった[4]

スパルタの重装歩兵を先陣とするギリシア軍の強さを目の当たりにしたクセルクセスは、ヒュダルネス率いる不死部隊を投入したが、優れた装備と高い練度を誇るギリシア軍を突破できなかった。ギリシア軍は、右手にペルシア軍のものを超える長さ2.5メートル以上の長槍、左手に大きな丸盾を装備し、自分の盾で左側の味方を守り、右側の味方に自分を守ってもらうファランクスを形成してペルシアの大軍と戦った。狭い地形を利用したファランクス陣形はまさに無敵であり、ペルシア軍の重圧をものともせずに押し返した。この時のスパルタの戦術は、敵前で背中を見せて後退し、ペルシア軍が追撃してきたところを見計らって向き直り、正面攻撃を行うというものであった[5]

翌日もペルシア軍はギリシア軍と激突したが、状況は一向に変わらなかった。ペルシア軍の損害は増える一方で、ギリシア軍を突破する糸口すら見出せなかった。クセルクセスは状況を打開できずに苦慮したが、ギリシア人からの情報によって[6]山中を抜けて海岸線を迂回するアノパイア間道の存在を知り、これを利用してギリシア軍の背後に軍を展開することを命じた。ペルシアの不死部隊は土地の住民を買収し、夜間この山道に入った。この道を防衛していたポキスの軍勢1,000は、ペルシア軍に遭遇するとこれに対峙すべく山頂に登って防衛を固めたが、防衛する軍がスパルタ軍ではないことを知ったペルシア軍は、これを無視して間道を駆け降りた[7](一説に拠ると、夜道を登り来る不死部隊を見たポキスの軍勢は自国が襲撃されると思い、守備隊全員が帰国してしまったとも言われる)。夜が明ける頃、見張りの報告によってアノパイア道を突破されたことを知ったレオニダスは作戦会議を開いたが、徹底抗戦か撤退かで意見は割れた。結局、撤退を主張するギリシア軍は各自防衛線から撤退し、スパルタ重装歩兵の300人とテーバイ400人、テスピアイ兵700人の合計1,400人(またはスパルタの軽装歩兵1,000人を加えて2,400人)は、共にテルモピュライに残った[8]

朝になると、迂回部隊はギリシア軍の背後にあたるアルペノイに到達した。クセルクセスはスパルタ軍に投降を呼び掛けたが、レオニダスの答えは「モーロン・ラベ(来たりて取れ)英語版ギリシア語版」であった。

決して降伏しないスパルタ軍に対して、クセルクセスは午前10時頃に全軍の進撃を指示。レオニダス率いるギリシア軍もこれに向かって前進を始めた。それまでギリシア軍は、戦闘し終えた兵士が城壁の背後で休めるように、街道の城壁のすぐ正面で戦っていたが、この日は道幅の広い場所まで打って出た[9]。凄まじい激戦が展開され、広場であってもスパルタ軍は強大なペルシア軍を押し返した。攻防戦の最中にレオニダスが倒れ、ギリシア軍とペルシア軍は彼の死体を巡って激しい戦いを繰り広げた。ギリシア軍は王の遺体を回収し、敵軍を撃退すること4回に及び、スパルタ軍は優勢であった。しかし、アルペノイから迂回部隊が進軍してくると、スパルタ・テスピアイ両軍は再び街道まで後退し、城壁の背後にあった小丘に陣を敷いた[10]。彼らは四方から攻め寄せるペルシア軍に最後まで抵抗し、槍が折れると剣で、剣が折れると素手や歯で戦った。ペルシア兵はスパルタ兵を恐れて肉弾戦を拒み始めたので、最後は遠距離からの矢の雨によってスパルタ・テスピアイ軍は倒された。テーバイ兵を除いて全滅した。ヘロドトスによれば、この日だけでペルシア軍の戦死者は2万人にのぼったとされる。

この戦いでスパルタ人の中ではアルペオスとマロンの兄弟そしてディエネケスが、テスピアイ人の中ではディテュランボスが特に勇名をはせたという。また、重い眼病によってスパルタ軍のエウリュトスとアリストデモスが一時戦場を去った。エウリュトスは再び戦場に戻って戦って討ち死にしたが、アリストデモスは戦場には戻らず、その時は生きながらえた。翌年のプラタイアの戦いで彼は恥を雪(すす)がんと奮戦し討ち死にした。


  1. ^ ヘロドトス『歴史』巻7,175
  2. ^ ヘロドトス『歴史』巻7,206。スパルタなど他のペロポネソス半島の諸都市が本隊を送らなかったのは、最初からイストモスを防衛する意図があったためと推察する向きもある。仲手川良雄『テミストクレス』p120-p122。
  3. ^ ヘロドトス『歴史』巻7,207
  4. ^ a b ヘロドトス『歴史』巻7,210
  5. ^ ヘロドトス『歴史』巻7,211
  6. ^ ヘロドトスはこの情報をもたらした人物について、複数の説を挙げている。ヘロドトス『歴史』巻7,213-216
  7. ^ ヘロドトス『歴史』巻7,218
  8. ^ スパルタとテスピアイの兵は自らの意思で残ったが、テーバイ兵については、レオニダスによって無理矢理留め置かれた。ヘロドトス『歴史』巻7,222
  9. ^ ヘロドトス『歴史』巻7,223
  10. ^ ヘロドトス『歴史』巻7,224-225
  11. ^ ヘロドトス『歴史』巻7,228
  12. ^ Simonides_of_Ceos (Wikiquote)






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