テルモピュライの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/23 23:49 UTC 版)
両軍の戦力
ギリシア陸戦部隊
史料によって人数が異なるが、ここにはヘロドトスとシケリアのディオドロスの述べる数字をまとめる。
内訳 | ヘロドトス | ディオドロス |
---|---|---|
スパルタ重装歩兵 | 300 | 300 |
スパルタ軽装歩兵 | ––– | 1,000 |
テゲア兵 | 500 | 3,000
(王指揮下のギリシア兵) |
マンティネイア兵 | 500 | |
オルコメノス兵 | 120 | |
アルカディア各都市の兵 | 1,000 | |
コリントス兵 | 400 | |
プレイウス兵 | 200 | |
ミュケナイ兵 | 80 | |
テスピアイ兵 | 700 | |
テバイ兵 | 400 | 400 |
ロクリス・オプンティア兵 | 不明 (地区の全兵力) | 1,000 |
マリス兵 | ––– | 1,000 |
ポキス兵 | 1,000 | 1,000 |
合計 | 5,200 | 7,700 |
ヘロドトスはスパルタ軍として参戦したのは300人隊のみであるとするのに対し、ディオドロスはスパルタ軍には300人隊に加えて1,000人のスパルタ軽装歩兵が参戦したとしており、ディオドロスが1,000人と伝えているロクリス・オプンティア(テルモピュライの真東)の全兵力を加えたギリシア側の総数は7,000人前後と推定される。ディオドロスのみが記載するマリス(テルモピュライの真西)は直前にペルシア軍本体に占領されており、実際には参戦していないと思われる。またこの戦いの直後にロクリスはペルシア軍に占領され、ポキスはペルシア側の同盟国となった。最後まで戦闘に参加したのは、スパルタ、テスピアイ 、テバイの兵 (合計1,400人~2,400人) のみである(ディオドロスによると、最後まで戦闘に参加したのはスパルタ兵とテスピアイ兵のみとしているが、合計500人と少ない数字を挙げている)。
ペルシア陸戦部隊
歩兵 | 1,700,000 |
騎兵 | 80,000 |
アラビア人の駱駝部隊・リビアの戦車部隊 | 20,000 |
ヨーロッパより参加の歩兵 | 300,000 |
合計 | 2,100,000 |
以上はヘロドトスの述べる数字である。ヘロドトスによるとこのほか水兵が541,610人おり、総兵力は2,641,610人。また非戦闘員が同数帯同したと仮定して遠征部隊の総勢を5,283,220人と見積もっているが、これらは明らかにペルシア遠征軍の実数としては過剰であり、実数とは認められない。ペルシア遠征軍の陸上部隊の実数については多くの学説が提唱されており、15,000人から30万人まで様々な推定がなされている。古代ペルシア語から古代ギリシア語への翻訳の過程で単位が1桁間違って伝わったという解釈に従うと、ペルシア陸戦部隊の総数は21万人となる。20世紀以降の学者の見解に限ればペルシア陸軍の総数を10万人以下とする推定が多く見受けられるが、20万人以上とする説も有力である。
- ^ ヘロドトス『歴史』巻7,175
- ^ ヘロドトス『歴史』巻7,206。スパルタなど他のペロポネソス半島の諸都市が本隊を送らなかったのは、最初からイストモスを防衛する意図があったためと推察する向きもある。仲手川良雄『テミストクレス』p120-p122。
- ^ ヘロドトス『歴史』巻7,207
- ^ a b ヘロドトス『歴史』巻7,210
- ^ ヘロドトス『歴史』巻7,211
- ^ ヘロドトスはこの情報をもたらした人物について、複数の説を挙げている。ヘロドトス『歴史』巻7,213-216
- ^ ヘロドトス『歴史』巻7,218
- ^ スパルタとテスピアイの兵は自らの意思で残ったが、テーバイ兵については、レオニダスによって無理矢理留め置かれた。ヘロドトス『歴史』巻7,222
- ^ ヘロドトス『歴史』巻7,223
- ^ ヘロドトス『歴史』巻7,224-225
- ^ ヘロドトス『歴史』巻7,228
- ^ Simonides_of_Ceos (Wikiquote)
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