テルモピュライの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/23 23:49 UTC 版)
背景
ペルシアの侵略に対して対応が混乱していたギリシアの諸都市であったが、ペルシア遠征軍がトラキアへ侵入するに及んで、連合してこれを迎撃することを決した。
先にテンペ峡谷に出兵したギリシア軍は、マケドニア王国のアレクサンドロス1世にペルシア遠征軍の巨大さを説かれてイストモスに撤退していたが、再び会議を開き、ペルシア艦隊をアルテミシオン沖で、クセルクセス本隊をテルモピュライで迎え撃つことを決議した[1]。テルモピュライ・アルテミシオンの防衛線は、アッティカ以北を防衛するための戦略的に極めて重要な意味を持つものだったが、スパルタはカルネイア祭によって全軍を出仕できず、レオニダス王率いる先遣隊300のみを派遣した。他のアルカディアの諸都市もオリンピア祭のために少数の部隊のみを動員し、祭りの終了とともに本隊を派遣することとした[2]。
テルマ(現・テッサロニキ)を出立したペルシア本隊は、テルモピュライ近郊のトラキスに陣を張った。その兵力規模のあまりの大きさにギリシア軍は恐慌に陥り、スパルタを除くペロポネソスの兵は、イストモスを防衛すべきとして撤退を主張したが、これにポキスとロクリスが強硬に反対した[3]。このためレオニダスはテルモピュライでの決戦を決意し、ギリシア諸都市に使者を送って支援を要請した。
ギリシア軍はテルモピュライの街道にあったポキス人の城壁を再建し、これを最終的な防衛ラインとした。また、この城壁は戦闘にも利用された。すなわち、戦闘を行う軍はこの城壁の前方に布陣して合戦し、戦闘をしない軍は城壁の後方に退避することで、できるだけ犠牲を最小限にしようとしたのである。
クセルクセスはギリシアの動きを察知していたが、兵力の差からギリシア部隊がまともに戦闘をおこなうとは信じられず、ギリシア部隊が撤退するのを4日間待った。しかし、5日目になってもギリシア軍が撤退する気配を見せなかったため、クセルクセスはメディア軍に攻撃を命じた[4]。
- ^ ヘロドトス『歴史』巻7,175
- ^ ヘロドトス『歴史』巻7,206。スパルタなど他のペロポネソス半島の諸都市が本隊を送らなかったのは、最初からイストモスを防衛する意図があったためと推察する向きもある。仲手川良雄『テミストクレス』p120-p122。
- ^ ヘロドトス『歴史』巻7,207
- ^ a b ヘロドトス『歴史』巻7,210
- ^ ヘロドトス『歴史』巻7,211
- ^ ヘロドトスはこの情報をもたらした人物について、複数の説を挙げている。ヘロドトス『歴史』巻7,213-216
- ^ ヘロドトス『歴史』巻7,218
- ^ スパルタとテスピアイの兵は自らの意思で残ったが、テーバイ兵については、レオニダスによって無理矢理留め置かれた。ヘロドトス『歴史』巻7,222
- ^ ヘロドトス『歴史』巻7,223
- ^ ヘロドトス『歴史』巻7,224-225
- ^ ヘロドトス『歴史』巻7,228
- ^ Simonides_of_Ceos (Wikiquote)
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