セヴリーヌ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/23 14:45 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動セヴリーヌ Séverine | |
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ナダールによるセヴリーヌの肖像写真 | |
生誕 | カロリーヌ・レミ (Caroline Rémy) 1855年4月27日 フランス、パリ2区 |
死没 | 1929年4月24日(73歳没) フランス、オワーズ県ピエールフォン |
職業 | ジャーナリスト、作家 |
活動拠点 | 『人民の叫び』 『ラ・フロンド』 |
運動・動向 | 社会主義、無政府主義 |
配偶者 | アドリアン・ゲバール (医師) |
子供 | ルイ、ローラン |
背景・結婚
セヴリーヌは1855年4月27日、カロリーヌ・レミとしてパリ2区に生まれた。父はパリ警視庁託児課の職員であった。芸術家志望であったが父に反対され、「小学校教員になるか、結婚するか」の選択肢しかないと言われた。セヴリーヌは結婚した方が自由になれると考えたため、1872年、17歳で父親が選んだ男性と結婚した。アンリ・モントロベールというガス公社の職員である。だが、彼女にとって結婚生活は自殺を考えるほど辛く、夫との性行為は「強姦」に等しかった[1]。
翌年、第一子ルイが生まれたが、夫のもとを去って生家に戻った。息子は夫が引き取り、託児所に預けた。生計を立てるためにピアノを教えたり、縫い物や刺繍の仕事を引き受けたりした後、後に結婚する医師のアドリアン・ゲバールの母でスイス生まれのゲバール夫人の付き添い(レディズ・コンパニオン)を務めた。アドリアン・ゲバールの子を妊娠したが、まだ離婚が合法化されていなかったためモントロベールと離婚できず、ブリュッセルに行き、滞在中に「母親不明」の子として第二子ローランを出産し、託児所に預けた。離婚が合法化された後、アドリアン・ゲバールと正式に結婚したが、子は引き取らず、ゲバール夫人に預けた[2]。
ジュール・ヴァレス -『人民の叫び』
ブリュッセル滞在中に、ゲバールを介して作家・政治家のジュール・ヴァレス (1832-1885) に出会った。パリ・コミューンの闘士で『人民の叫び』を創刊したヴァレスは、コミューン崩壊後にベルギーに亡命していた。セヴリーヌはヴァレスに「革命の手ほどき」を受け、「無政府主義」を学んだ。パリに戻ってからも常にヴァレスに同行し、多くのジャーナリストに紹介された。当時、政治・社会問題を扱う報道界は「男社会」であったが、セヴリーヌは彼らから取材方法や記事の書き方を学んだ。ヴァレスに秘書にならないかと持ちかけられ、喜んで引き受けたが、国外追放された無政府主義者ヴァレスへの不信感から周囲が反対したため、セヴリーヌは拳銃で自殺を図った。未遂に終わったこの事件から、彼女は自分の意思で行動する自由を得た[2]。ヴァレスはセヴリーヌが校正を担当し、1883年に発表された『ロンドン通り』を彼女に献呈した[3]。
1883年10月28日、二人はゲバールの経済支援を受けてコミューン崩壊以後中断していた『人民の叫び』を再刊した。セヴリーヌが初めて書いた記事は同年11月22日号に掲載された。女性に対する偏見があったため、2回目まではセヴランという男性名で発表し、3回目からセヴリーヌというペンネームを使うようになった[2]。
1885年にヴァレスが死去した後はセヴリーヌが編集長を務めた。同年、1884年創刊の日刊紙『エコー・ド・パリ』の記者で『人民の叫び』の編集委員となったジョルジュ・ド・ラブリュイエールに惹かれ、生活を共にするようになった。だが、このために他の編集委員との間に思想的な対立が生じ、セヴリーヌはジュール・ゲードらのマルクス主義者を「社会のパリサイ人(偽善者)」と非難し、ゲード派はラブリュイエールを「売春婦のヒモ」と罵倒した。こうした対立から1888年、セヴリーヌはラブリュイエールとともに『人民の叫び』を離れ、独立したジャーナリストとして他の新聞に寄稿するようになった[4]。
徹底したルポルタージュ・弱者支援
セヴリーヌは、事件現場に赴き、多くの関係者に直接話を聞き、「自分の目で確かに見聞きしたことを正確に読者に伝えるというルポルタージュ(現地報告)の原則を確立した」「世界で初めてのレポーター」と呼ばれた[5]。王党派として創刊され、後に(1929年)『ル・フィガロ』紙と合併したアルチュール・メイエルの日刊紙『ル・ゴロワ』(1868-1929) では、1887年5月25日のオペラ=コミック座の火事[6]について記事を書くために、まだ消火作業中の現場に飛び込んで取材し、100人以上が犠牲になった1890年のサン=テティエンヌ炭鉱炭塵爆発事故では、坑夫の作業服を着て坑道に降りて取材した。社会主義者・無政府主義者として常に弱者の立場に立っていた彼女は、事件を正確かつ詳細に伝えただけでなく、被害者である労働者の境遇改善を訴えた[7]。
1889年9月にパリ19区のフランドル通りの製糖工場で女性労働者がストライキを行ったときにも、制服を借りて現場に潜り込み、女性たちの話を直接聞いて、その労働環境の劣悪さを訴えた[8]。1891年5月1日、ノール県フルミー炭鉱で行われた労働者の平和的デモを軍が弾圧し、女性や子どもを含む9人が殺害された事件(フルミー事件)では、軍国主義を厳しく批判した[4]。1890年から1891年にかけて大寒波に襲われたときには、ジャーナリストや新聞社に呼びかけて「報道界の避難場所」を組織し、パリ9区の旧プールにホームレスの人々などを収容し、レストラン「デュヴァル」の経営者アレクサンドル・デュヴァルの協力を得て、毎晩、温かいスープを配給した[1]。
- ^ a b c d “SÉVERINE (Caroline RÉMY) - Dictionnaire des anarchistes” (フランス語). maitron-en-ligne.univ-paris1.fr. Maitron. 2019年4月13日閲覧。
- ^ a b c Michel Winock (2016-08-29) (フランス語). Les voix de la liberté. Les écrivains engagés au XIXe siècle. Le Seuil
- ^ Schlumberger, Béatrice (1927). “« La Rue à Londres » par Jules Vallès”. Revue d’Histoire Moderne & Contemporaine 2 (7): 36–47. doi:10.3406/rhmc.1927.3391 .
- ^ a b c d e f Évelyne Le Garrec (2009) (フランス語). Séverine (1855-1929), Vie et combats d'une frondeuse. l'Archipel
- ^ a b c 間野嘉津子「世紀末文化とジェンダー ― 日刊紙〈ラ・フロンド〉と新聞記者セヴリーヌに関する一考察」『大阪経大論集』第55巻第1号、2004年5月。
- ^ “Incendie de la deuxième Salle Favart” (フランス語). Opéra Comique (2014年11月18日). 2019年4月13日閲覧。
- ^ “Il était une fois Séverine”. www.forez-info.com (2007年5月18日). 2019年4月13日閲覧。
- ^ Alain Rustenholz. “Séverine, Jules Vallès, et un mari ramenant sa femme gréviste chez Lebaudy le fouet à la main: ça vibre à la Villette!” (フランス語). 2019年4月13日閲覧。
- ^ 鈴木重周「19世紀末フランスにおける反ユダヤ主義の拡散とジャーナリズム:エドゥアール・ドリュモン『ユダヤのフランス』をめぐって」『ユダヤ・イスラエル研究』第28巻、日本ユダヤ学会、2014年、 12-23頁、 doi:10.20655/yudayaisuraerukenkyu.28.0_12、 ISSN 0916-2984、 NAID 130005568052。
- ^ Christine Bard, Sylvie Chaperon (2017) (フランス語). Dictionnaire des féministes. France - XVIIIe-XXIe siècle. Presses Universitaires de France
- ^ “Manifestation en l'honneur de Condorcet, terrasse de l'Orangerie des Tuileries à Paris, le 5 juillet 1914 : (photographie) : une femme montée sur une échelle dépose des primevères sur le piédestal de la statue de Condorcet”. Bibliothèques spécialisées de la Ville de Paris. 2019年4月13日閲覧。
- ^ “La marche du 5 juillet 1914 pour le droit de vote des femmes | Histoire et analyse d'images et oeuvres” (フランス語). www.histoire-image.org. 2019年4月13日閲覧。
- ^ “"Plutôt la mort que l'injustice. Au temps des procès anarchistes", de Thierry Lévy : ils croyaient dynamiter l'injustice” (フランス語). Le Monde. (2010年1月21日) 2019年4月13日閲覧。
- ^ “FÉNÉON Félix (Louis, Félix, Jules, Alexandre, Élie) - Dictionnaire des anarchistes”. maitron-en-ligne.univ-paris1.fr. Maitron. 2019年4月13日閲覧。
- ^ 尾崎和郎「世紀末fin de siecleの4人のテロリスト ― ラヴァショル, ヴァイヤン, E・アンリ, カゼリオ」『成城文藝』第147号、成城大学文芸学部、1994年7月、 59-81頁、 ISSN 02865718。
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