センピル教育団
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教育と持ち込んだ航空機
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団長であった当時のセンピル大佐はスコットランドの貴族出身で、若くして戦功をあげ、28歳で大佐に抜擢された空軍将校だった。指導方針は厳格で、間違えると容赦なく叱責したが、教えたとおりできれば明るく笑顔で喜ぶ人だった。
教育の主任は次のとおりだった。
- 操縦主任 ファウラー少佐
- 整備主任 アトキンソン少佐
- 飛行艇主任 ブラックレー少佐
- 艦隊作戦主任 スミス少佐
- 水上機主任 ブライアン大尉
- 落下傘主任 オードリース少佐
彼らが持ち込んだ航空機は、次のものなど約100機であり、多様だった。
- 陸上機
- アブロ 504陸上練習機/水上練習機 (A.V.Roe 504 K/L Trainer)
- グロスター スパローホーク艦上戦闘機 (Gloster Sparrowhawk Carrier Fighter)
- パーナル パンサー艦上偵察機 (Parnall Panther Carrier Reconnaissance-plane)
- ブラックバーン スウィフト雷撃機 (Blackburn Swift Carrier Torpedo-Bomber)
- ソッピース クックー単座雷撃機 (Sopwith Cockoo T.Mk.2 Carrier Torpedo-Bomber)
- スーパーマリン シール水陸両用飛行艇 (Suprmarine Seal Amphibian Flying-boat)
- ヴィッカース バイキング水陸両用飛行艇 (Vickers Viking Amphibian Flying-boat)
- ショート F5号飛行艇 (Short F.5 Patrol Flying-boat)
日本の海軍航空は当時は水上機しか使っていなかったので、驚きをもって迎えた。
霞ヶ浦では艦上機の操縦と射撃、偵察、爆撃、雷撃の講習を行い、横須賀では水上機の操縦、飛行船、気球の操縦などの講習を受けた。日本側の海軍航空の講習員全員の熱意はもちろんのこと、英国空軍側も、センピル大佐をはじめとする責任者たちは実に誠意をもって指導してくれた。後年不幸にも英国と日本は敵味方に分かれて戦うことになったが、少なくとも海軍航空はこの時に面目を一新した。[5]
センピル卿は帰国後も日本海軍のために情報を提供するなど便宜を図りつづけ、神風号がロンドンに到着した際にも出迎えた。しかし、こうした行動を日英同盟解消、第二次世界大戦勃発といった状況の変化にもかかわらず続けたので、日英開戦後は日本のスパイとして取り調べられた[6]。
- ^ 臨時航空術練習に関する件「永存書類甲輯第4類 大正8年(防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C02030896700
- ^ 陸軍演習場規則中改正の件「永存書類甲輯第4類 大正10年(防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C02031012300
- ^ 海軍兵学校第40期。横空1期として各航空隊を指揮。1944年8月に第28根拠地隊司令官としてビアク島で戦死。
- ^ 伊澤保穂, 2 重爆の採用と爆撃隊の誕生 航空大隊の創設『日本陸軍重爆隊』徳間書店, pp.25-26.
- ^ 和田秀穂 中将『海軍航空史話』1944年, pp.161-167.
- ^ “【衝撃の戦争秘話】日本のスパイとなった英国人貴族将校がいた!”. 現代ビジネス. (2020年10月18日)
- 1 センピル教育団とは
- 2 センピル教育団の概要
- 3 教育と持ち込んだ航空機
- 4 脚注
- センピル教育団のページへのリンク