スリーマイル原子力発電所事故に対する東京電力の対応 スリーマイル原子力発電所事故に対する東京電力の対応の概要

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > スリーマイル原子力発電所事故に対する東京電力の対応の解説 > スリーマイル原子力発電所事故に対する東京電力の対応の概要 

スリーマイル原子力発電所事故に対する東京電力の対応

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/01 09:41 UTC 版)

1979年3月中の対応

事故が発生した翌日早朝、NHKのニュースが事故の第一報であった。当時同社が唯一運転していた原子力発電所である福島第一原子力発電所でもこのニュースが最初で、間もなく東京電力ワシントン事務所(1970年代、従来の三井物産のような商社経由での情報収集体制を強化するため設けられていた)からファックスが続々届き始めた。同発電所は1974年以来渉外担当を設置していたが、当座の処置として29日の午前中には双葉町大熊町両町に事前の約束に従って連絡し、当日中に県庁にも人を出して報告した[1]。その後もワシントン支局から続報が来るたび、発電所でも資料をまとめ、県の原子力対策室に送った資料は第10報、厚さ10cm以上に及んだという。また県でも29日に東京電力の他科学技術庁の連絡調整官事務所に情報収集を依頼している[2][注 1]

当時福島第一原子力発電所から本店に転属となり原子力計画課で炉心燃料設計、安全設計を担当していた榎本聰明にとっても、この事故は重大な関心事だった。幸い、榎本の前任者の濱田博義が東京電力ワシントン事務所に駐在していたため、「素晴らしい情報がまるで実況放送のように、毎日届けられ」「聞きたいと思うようなことが(中略)微に入り細に入り解説されていた」「当時日本に入る情報で、専門家も満足出来る一番内容のあるレポートだった」という[3]

1979年4月までの対応

東京電力は、スリーマイル島 (TMI) 原子力発電所での事故発生を知った直後、福島第一原子力発電所に緊急指示を出した。続いて4月5日付で依命通達(企企通達54第1号)を出し、安全運転・管理体制の再点検を指示、具体的には保安規程、運転要領、異常時の指揮命令・連絡体制などが対象となった。依命通達にはこれに加え「各室部・店所は、地方自治体、対外有識者、オピニオンリーダー等、必要な関係者に対して、今回の事故の実態、当社原子力発電所の仕組みや安全確保の態勢、あるいは当社の対策に関する十分な説明を行い、また全社を挙げて地道な理解、周知を強化することによって、現在の原子力に対する社会的不安感を払拭し、安全性への信頼回復に努めること。」と記載された[4]

『大熊町史』によると事故時、福島県原子力対策室は強い緊迫感に見舞われ、福島第一原子力発電所の立地する大熊町民にも不安感を持つ者が多くいたとされる。本発電所はTMI加圧水型原子炉 (PWR) と異なる沸騰水型軽水炉 (BWR) 方式ではあったが、1979年4月23日には仙台通産局の検査官により、国の特別保安検査(後述)が実施され、県と大熊町、双葉町による立ち入り調査が4月27日、28日の両日に渡って実施された[5]

特別保安監査

4月23日から25日まで続いた国の特別保安監査は東京電力にとっても初体験で、所長の伏谷潔は緊張の連続であったという。スリーマイルでの事故以来、発電部、技術部の職員は監査の日まで報告書の作成に忙殺され深夜まで残業を重ねていた。23日、4号機の中央操作室で行われた各系統の監査では13人の当直員に対して4名の検査官が監査を実施。25日の連絡体制の監査は一種の防災訓練で、13時50分頃、中央操作室に待機していた国の検査官が想定シナリオの入った封筒を発電直の誰かに渡し(誰に渡されるかも事前通知は無い)その人が「事故発見者」となって事故対応の指揮振りを観察した。なお想定訓練ではよく見られる避難者役などの他にも様々な役職が存在し、朝日新聞によると、「朝日新聞記者役」の社員は厳しい質疑を展開したという[6]

1979年5月以降の対応

1979年6月の組織改正

なお、1979年6月28日福島第一原子力発電所に対して次の組織改正を行った[7]

  • 総務部に「広報課」を設置する。
  • 技術部に「核燃料課」を設置する。
  • 発電部を「第一発電部」「第二発電部」に分割し、それぞれに発電課、保修課(第一発電部は第一保修課、「第二保修課」の2課体制)を設置する。
  • 各中央操作室に「当直長」を配置する。

『東京電力三十年史』ではこの事故の教訓として下記を実施したとされている[8]

  1. 中央操作室操作盤の見直し:同事故の原因である人間と機械との係わり合いの点から、重要な操作スイッチ、監視計の色別化、警報の重要度による分類と色別化、誤操作対策を実施
  2. 運転管理面の見直し:事故時手順、日常巡視点検見直し、非常用機器状態確認チェックシートの採用、事故時における当直長の責任の重要性から、各中央操作室ごとに特別管理職たる当直長を配置
  3. 教育訓練の見直しBWR運転訓練センター(BTC)での特別訓練、長期養成計画の強化(後述)
  4. 原子力技能訓練センター設置(後述)
  5. 防災計画見直し:緊急技術助言組織の設置等
  6. 発電所における緊急医療体制の整備

この内、中央操作室(中操)単位での当直長配置については事故前の1978年3月、東京電力労働組合による団交にて話題に上っている。この団交では発電直(運転中の中央操作室を中心とした人員配置のこと)について、「各中操ごとに当直副長、1~4号機については管理規模を考慮し更に当直長の補佐職位を配置する」旨妥結した。その際組合側は1~4号機の1級副長を廃止し、中操単位で当直長を置くように申し入れた。会社側は申し入れに対して「当直長は運転業務に関する総括責任者として各班に1名配置することが基本的な方針である。5、6号機については距離および管理面をとくに考慮し(当直長を)配置するのであって、中操単位に当直長を配置する考えはない」と否定的な姿勢を取った[9]。『東京電力三十年史』では組合から配置要求があったいきさつについては触れられていない。なお豊田正敏は「(TMI事故の場合)当直長が重大な責任を有しているわけだから、当直長を各中央操作室に一人配置し、休日、夜間に所長や上位職がいない時に所長の代行権を、その三人の当直長のうち一~二号担当に権限を与えることも規定上明確にした。それから先般の七月の人事異動で、当直副長に優秀な人材を配置した」と述べている[10]

朝日新聞によると従来、東京電力の人事異動は毎月少人数ずつ行われてきたが[注 2]、1979年度から定期異動に切替され、最初の異動は6月下旬から8月にかけて発令された。また、福島第一原子力発電所内だけでも100名以上の大規模な異動でその目的は「原子力部門の強化」で、所内の機構改革もその一環だったという。所長の伏谷は理事に昇格している。また、新体制の元では事務系職員にも「直員の仕事を知らなくては話にならない」ことから原子力理解のための技術研修が2泊3日で実施され、その効果は大であったという[11]

上層部の認識

事故から間もない時期、副社長の堀一郎(取締役として原子力担当の職に就いたのは1975年6月[12])は、福島第一原子力発電所を意識しながらこの事故を取り上げた対談記事にて「核燃料がメルトダウンしてそれが炉外に浸出し爆発するようなことはありません。そういう構造になっているのです。」「我々のやっていることは、まず放射能汚染を受けないよう何重もの安全設備を考えていることです。水が落ちてしまって燃料露出の影響がある時には、ECCSが働くようになっています」という当時の紋切型の説明をするに留まっている[13]

資源エネルギー庁、福島県

事故後、資源エネルギー庁は国内に導入されていた各炉型について再点検を実施し、BWRについても検討を行って「安全性を確かめ」、福島第一原子力発電所を抱える福島県も『アトム福島』21号にて下記のようにその結果を引用した[14]

  • 設計が基本的に異なるため、今回の事象に対応させて検討することはできない。
  • ただし、「給水ポンプが停止した場合」について検討を行い、次のように結論した。
  1. 補助給水ポンプが自動起動する
  2. 補助給水ポンプが起動しない場合、原子炉は「安全に」停止し、必要によってはECCSが作動することで、原子炉の健全性は維持される
  3. ECCSで使用する水は、圧力抑制プールおよび復水貯蔵タンク内の水を使用するため、原子炉への冷却水の注入は継続される。

注釈

  1. ^ なお、情報の受け手だった県原子力対策室長もこの日以来激務に追われ、室長の和田和人は1ヶ月で体重が4kgも落ちたという。朝日新聞いわき支局 編. 1980, pp. 14
  2. ^ なお役職者の異動は社報『とうでん』に掲載される。
  3. ^ 当時福島第二原子力発電所はまだ建設中であるため、福島第一原子力発電所より10㎞以内に存在する自治体となっている。
  4. ^ 双葉、大熊両町の防災無線(一般広報用途を兼ねる)は1983年4月に開局し、広野町、楢葉町では先行して開局していたアトム福島編集部「双葉町の新庁舎落成」『アトム福島』第40巻、福島県、1983年3月、3頁。 
  5. ^ 本訓練が日本初であるという出典は(広報おおくま 1984, p. 4)(福島県原子力センター 編 2005, p. 45)など。

出典

  1. ^ 朝日新聞いわき支局 編. 1980, pp. 12–13.
  2. ^ 朝日新聞いわき支局 編. 1980, pp. 15.
  3. ^ 榎本聰明 2010, pp. 130.
  4. ^ 依命通達 1979, p. 7
  5. ^ TMI事故時の地元対応については大熊町史編纂委員会 編. 1985, pp. 842–843「原発の事故」
  6. ^ 1979年4月の特別保安監査については朝日新聞いわき支局 編. 1980, pp. 17–19
  7. ^ 東電労組東労史編集室編 1986, p. 548「昭和54年度の職制改正」
  8. ^ 『東京電力三十年史』に記載されたTMI事故対策については東京電力 1983, pp. 857–859
  9. ^ 東電労組東労史編集室編 1986, pp. 659–660「(4)火力・原子力発電所の発電直管理体制の強化」
  10. ^ 「原発の現状と諸問題 AET導入前向きに検討 運転管理体制強化へ 豊田正敏東電常務相談役に聞く」『電気新聞』1979年10月25日3面
  11. ^ 1979年6月の大異動に際しての解説は朝日新聞いわき支局 編. 1980, pp. 233–234
  12. ^ 掘一郎の経歴は『電気情報』1976年3月p. 2も参照
  13. ^ 対談 1979, p. 4.
  14. ^ 事故時、福島県が資源エネ庁の説明をどのように引用して広報したかについてはアトム福島編集部 1979, p. 6
  15. ^ 榎本聰明 2010, pp. 131.
  16. ^ 原子力管理部 1983, p. 5.
  17. ^ 原子力管理部 1983, p. 6.
  18. ^ 「人間と機械 共感時代(40)直観(4)画面見れば原発の状態ばっちり」『日経産業新聞』1984年3月28日17面
  19. ^ 「原子力”成熟化”を支える運転員 訓練設備、教官充実へ 役割高まる訓練センター」『電気新聞』1986年3月10日1面
  20. ^ 榎本聰明 2010, pp. 131–132.
  21. ^ a b 原子力災害対策計画の策定 『福島県』災害対策課
  22. ^ 1980年の要綱、要領の追加についてはアトム福島編集部 1980, p. 5
  23. ^ 防災会議の開催と県地域防災計画の修正経過(昭和50年以降) 『福島県』災害対策課
  24. ^ 原子力災害対策の修正案についてはアトム福島編集部 1981, p. 2
  25. ^ 高倉吉久「TMI事故及び原子力防災訓練について」福島県原子力センター 編 2005, p. 45
  26. ^ a b 広報おおくま 1984, p. 4.
  27. ^ 広報おおくま「原子力防災訓練11月30日に実施」『広報おおくま』第150巻、大熊町、1983年11月。 
  28. ^ 広報おおくま 1986, p. 8.
  29. ^ 山崎久隆 1993, pp. 268–270.
  30. ^ 舘野淳 2011, pp. 119.
  31. ^ 山崎久隆 1993, pp. 272.
  32. ^ 東電の調査報告書案「官邸の介入、無用な混乱助長させた」 『産経新聞』2012年6月12日06時58分配信


「スリーマイル原子力発電所事故に対する東京電力の対応」の続きの解説一覧



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「スリーマイル原子力発電所事故に対する東京電力の対応」の関連用語

スリーマイル原子力発電所事故に対する東京電力の対応のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



スリーマイル原子力発電所事故に対する東京電力の対応のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのスリーマイル原子力発電所事故に対する東京電力の対応 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS