スリーマイル原子力発電所事故に対する東京電力の対応 1980年以降の対応

スリーマイル原子力発電所事故に対する東京電力の対応

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/12 00:17 UTC 版)

1980年以降の対応

東京電力

事故解析

原子力安全委員会も1979年4月より「TMI事故調査特別部会」を設置、1979年9月の第2次報告では同事故の教訓を日本の原子力安全確保策に反映させるべき事項として52項目を摘出、東京電力社内でもこの動きに対応しながら現状分析、問題点、改善の方向性などを検討した。個別には影響の少ない故障やミスの重畳、事態を悪化する方に誤認する系統的なヒューマンエラーなどの重要性が再認識された。榎本がBWRの設計には特に影響がないと確信できたのは、アメリカの委託先研究機関の実験結果を調査した1980年10月頃であったという[15]

品質保証活動

なお、事故の過程より、部品の動作についても(従来国内で起きていたトラブルが部品の品質問題に端を発した案件も多かったことから)問題視され、東京電力はこの事故を教訓に1980年7月、本店と各原子力発電所及び各建設所に品質保証推進会議を設置した[16]

資格制度の強化

1980年12月には国により原子力発電所運転責任者(当直長)資格制度を創設、当直長は同認定試験合格が条件となった他、各原子力発電所に運転管理専門官が派遣され、保安規定の順守状況がチェックされることとなり、各原子力発電所に順次派遣された[17]

第二世代中央制御盤の開発

中央制御盤に対する改善策はその後も模索が続けられ、福島第二原子力発電所3、4号機より設計を大幅に改めた新型制御盤が導入された。新型制御盤の特徴は下記にまとめられる。日経産業新聞は1984年当時GEにて同種の設計思想を取り入れた制御盤がまだ試作段階にあったことを挙げ「TMI原発事故の教訓が具体的な運転システムの改善として実現した最初のケース」と紹介している[18]

  1. 壁一面に並べられていた制御盤を主盤と副盤に分離。通常の監視は主盤のみで行い、サブシステム、支援システムは副盤から操作する。
  2. CRTディスプレイを大幅に増加させ、従来の3台から主盤7台、その他を含め合計11台に増加させた。CRTにはプラント全体の運転状況、炉心、冷却系、ECCS待機状況、給水タービン系、電源系等140種類(各画面に表示する蒸気圧、給水量、放射線量等の元データは4000種類)の画面が設定されており、運転員はボタン操作で必要な画面をCRTに呼び出す。なおCRTはカラー表示を採用している。CRTを主軸に据えたことで、運転員は多数の計器からプラント運転状態を推測する面倒から解放され、座ったまま監視することが可能となった。事故時には原因を示す画面や普段表示しない画面などが呼び出される。
  3. メッセージ表示、音声ガイドを採用
運転訓練

BTCでの訓練については、『電気新聞』によると、東京電力はチェルノブイリ原子力発電所事故の直前、1986年よりファミリー研修を重視し、それまで年1~2回だった受講を年3回に増やすことを決定していた。訓練内容も異常時、緊急時対応訓練の時間を増やし、臨場感を持たせる工夫を行っている[19]

開発研究

その他、開発研究として、東京電力は国内電力他社等、米国エネルギー省と共同で1984年から1989年に渡って事故状況把握、採取試料分析、放射性廃棄物処理、処分技術開発の研究を行い、「このような事故がなければ得られないような貴重な知見」を得たという[20]

福島県

東京電力の原子力発電所が立地する福島県はこの事故を受けて原子力委員会が示した指針に基づき、地域防災計画の中に原子力災害対策計画を定め防災体制を整備した[21]。また、1980年1月28日、下記の資料編

  • 福島県原子力発電所防災対策実施要領
  • 福島県原子力災害対策現地本部の組織等に関する要綱

を策定し、「計画を補うもの」とした[22][23]

その後、県は防災会議の中に原子力防災部会を設置、更に部会の中に小委員会を設けて宮永一郎日本原子力研究所理事を主査として招聘し、原子力災害対策の修正案を検討し1981年6月4日成案を得た[24]

  • 第1「総則」:「原子力防災対策を重点的に充実すべき地域」については国の検討結果を踏まえ、原子力発電所から概ね10㎞の範囲の大熊町、双葉町、富岡町、浪江町とした[注 3]
  • 第2「災害予防計画」:原子力防災知識の普及徹底、防災業務の教育訓練、通信連絡網の整備[注 4]
  • 第3「災害応急対策計画」:県庁が立地町より遠方にあるため、県災害対策本部、現地対策本部の設置を明記。現地対策本部には緊急モニタリング、緊急医療、連絡調整、警察の各班で構成することも明記した。
  • 第4「災害復旧計画」:各種指示、制限の解除、汚染物質除去、防護対策、健康調査等の事後措置を行う。

原子力防災訓練

本事故を教訓に、日本で初めての原子力防災訓練が実施された[注 5]

県、東京電力、警察、自衛隊、病院等関係機関多数が参加したが、実施を強く働きかけたのは福島県である。1977年から1983年まで福島県原子力センターに在職していた高倉吉久は「国は立地、設計、施工、運転の全てに責任を持つとの立場から、地方自治体が実施しようとしていた原子力防災訓練には非常に消極的でした」と回顧している。当時福島県としては住民の理解を得るため、机上のプランではなく実際に住民避難を伴った訓練が必要であるとの考えから、丁々発止の交渉を行って 国と東京電力を「強引に説き伏せ」たという[25]

こうして1983年11月30日、初の原子力防災訓練が福島第一原子力発電所を対象に大熊町で実施された。実施時間は午前9時から午後2時半。シナリオは「午前9時、4号機が全出力運転中に冷却系に異常を生じ緊急停止、発電所周辺に放射性物質の影響を及ぼすおそれが生じた」という想定であった。屋内退避なども実施され、発電所周囲半径1㎞、風下3㎞の範囲が避難地域に指定され、大熊町スポーツセンターに避難用車両を集結した[26]

なお高倉は「住民避難を伴った」と述べているが、実際には大熊町消防団、東京電力社員が「一般住民」役を演じたものであった[26]。このため、事前に『広報おおくま』で予告されたものの、一般町民への案内は国道6号線の交通規制に対する協力願いとなっていた[27]。このためチェルノブイリ原子力発電所事故後、大熊町議会で再度防災を議論した際、この訓練を振り返って「住民不在の防災訓練」として批判的に指摘を受けることとなったが、町長は答弁にて一部住民も参加していたと述べ、「産業道路のような形で福島なら福島、郡山なら郡山へ一時間位で行けるような幅の広い道路や阿武隈山脈の中腹に避難壕的なものを作って、備えあれば憂い無しの例えの施設を作るのが肝要であろう」とし国の責任においてインフラ整備を実施するよう求めるとした[28]


注釈

  1. ^ なお、情報の受け手だった県原子力対策室長もこの日以来激務に追われ、室長の和田和人は1ヶ月で体重が4kgも落ちたという。朝日新聞いわき支局 編. 1980, pp. 14
  2. ^ なお役職者の異動は社報『とうでん』に掲載される。
  3. ^ 当時福島第二原子力発電所はまだ建設中であるため、福島第一原子力発電所より10㎞以内に存在する自治体となっている。
  4. ^ 双葉、大熊両町の防災無線(一般広報用途を兼ねる)は1983年4月に開局し、広野町、楢葉町では先行して開局していたアトム福島編集部「双葉町の新庁舎落成」『アトム福島』第40巻、福島県、1983年3月、3頁。 
  5. ^ 本訓練が日本初であるという出典は(広報おおくま 1984, p. 4)(福島県原子力センター 編 2005, p. 45)など。

出典

  1. ^ 朝日新聞いわき支局 編. 1980, pp. 12–13.
  2. ^ 朝日新聞いわき支局 編. 1980, pp. 15.
  3. ^ 榎本聰明 2010, pp. 130.
  4. ^ 依命通達 1979, p. 7
  5. ^ TMI事故時の地元対応については大熊町史編纂委員会 編. 1985, pp. 842–843「原発の事故」
  6. ^ 1979年4月の特別保安監査については朝日新聞いわき支局 編. 1980, pp. 17–19
  7. ^ 東電労組東労史編集室編 1986, p. 548「昭和54年度の職制改正」
  8. ^ 『東京電力三十年史』に記載されたTMI事故対策については東京電力 1983, pp. 857–859
  9. ^ 東電労組東労史編集室編 1986, pp. 659–660「(4)火力・原子力発電所の発電直管理体制の強化」
  10. ^ 「原発の現状と諸問題 AET導入前向きに検討 運転管理体制強化へ 豊田正敏東電常務相談役に聞く」『電気新聞』1979年10月25日3面
  11. ^ 1979年6月の大異動に際しての解説は朝日新聞いわき支局 編. 1980, pp. 233–234
  12. ^ 掘一郎の経歴は『電気情報』1976年3月p. 2も参照
  13. ^ 対談 1979, p. 4.
  14. ^ 事故時、福島県が資源エネ庁の説明をどのように引用して広報したかについてはアトム福島編集部 1979, p. 6
  15. ^ 榎本聰明 2010, pp. 131.
  16. ^ 原子力管理部 1983, p. 5.
  17. ^ 原子力管理部 1983, p. 6.
  18. ^ 「人間と機械 共感時代(40)直観(4)画面見れば原発の状態ばっちり」『日経産業新聞』1984年3月28日17面
  19. ^ 「原子力”成熟化”を支える運転員 訓練設備、教官充実へ 役割高まる訓練センター」『電気新聞』1986年3月10日1面
  20. ^ 榎本聰明 2010, pp. 131–132.
  21. ^ a b 原子力災害対策計画の策定 『福島県』災害対策課
  22. ^ 1980年の要綱、要領の追加についてはアトム福島編集部 1980, p. 5
  23. ^ 防災会議の開催と県地域防災計画の修正経過(昭和50年以降) 『福島県』災害対策課
  24. ^ 原子力災害対策の修正案についてはアトム福島編集部 1981, p. 2
  25. ^ 高倉吉久「TMI事故及び原子力防災訓練について」福島県原子力センター 編 2005, p. 45
  26. ^ a b 広報おおくま 1984, p. 4.
  27. ^ 広報おおくま「原子力防災訓練11月30日に実施」『広報おおくま』第150巻、大熊町、1983年11月。 
  28. ^ 広報おおくま 1986, p. 8.
  29. ^ 山崎久隆 1993, pp. 268–270.
  30. ^ 舘野淳 2011, pp. 119.
  31. ^ 山崎久隆 1993, pp. 272.
  32. ^ 東電の調査報告書案「官邸の介入、無用な混乱助長させた」 『産経新聞』2012年6月12日06時58分配信





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