ジャン・ピアース
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生涯
前半生
ジャン・ピアース、本名ジェイコブ・ピンカス・ペレルムース'Jacob Pincus Perelmuth)は1904年6月3日、ニューヨークでルイス・ペレルムースとアンナ・ポスナー・ペレルムースの間に生まれる[2]。両親はロシア帝国領ベラルーシからマンハッタン地区ロウワー・イースト・サイドに移り住んできたユダヤ系移民であり[2][3]、母のアンナはジェイコブに音楽的素養を与えようとピアノを買うことを最初は考えたが、経済的余裕に乏しかったのでヴァイオリンを買い与えた[2]。また、ジェイコブは歌唱にも才能を見せてシナゴーグの聖歌隊の一員にもなり、その高い声は周囲から賞賛を受けるほどであった[2]。しかし、アンナはジェイコブを音楽で生業を立てさせるという考えは持っておらず医師になるように勧め、ジェイコブ自身もこの時は異論なく了承し、デウィット・クリントン・ハイスクールを経てコロンビア大学に進んだ[2][3]。しかし、大学に進学したジェイコブは得意のヴァイオリンを生かして小さなダンスバンドを結成し、学内結婚式などで公演を行って収入を得るようになったが、音楽活動に傾倒する一方で勉学には身が入らなくなり、ジェイコブ自身も勉学より音楽の道に専念することを決心して、最終的にはコロンビア大学を中退した[2]。このコロンビア大学時代、ジェイコブは幼馴染のアリス・カルマノヴィッツと1928年10月に極秘裏に結婚する[2]。アリスとは1912年からの馴染みであったが大学時代までは何も進展はなく、また交際が本格化してもジェイコブの将来が不安定であると思われたため、ルイスとアンナは結婚を認めなかった[2]。このような背景から、ジェイコブとアリスは駆け落ち同然で結婚をしたわけだが、結局は両親のもとで生活をせざるを得なくなった[2]。もっとも、ルイスとアンナも最終的には結婚を認め、1929年6月にシカゴで正式な挙式を挙げることができた[2]。1930年4月19日にアリスは長男ローレンスを出産。ローレンスは、のちに映画とテレビのディレクターとして活躍するラリー・ピアースである[2][4]。
歌手活動のはじまり
コロンビア大学でのバンド活動でジェイコブは「ピンキー・パール」(Pinky Pearl) や「ジャック・パール」(Jack Pearl) といった芸名を使い、ヴァイオリンと歌唱で名を馳せたが、これらの活動が興行師サミュエル・ロキシー・ロサフェルの目に留まり、ジェイコブは1932年に開場したラジオシティ・ミュージックホールの興行にバンドごと誘われることとなった[2]。ロサフェルはジェイコブとは「歌手としてのジェイコブ」ではなく「ヴァイオリニストとしてのジェイコブ」として契約したが、間もなく歌手として売り出すことを決心する[2]。契約を結ぶ前、ホテル・アスターでのバンド公演でロサフェルが、ジェイコブが "Yours Is My Heart Alone" を歌っていたのを耳にしていたからであった[5]。ロサフェルはジェイコブに「ジョン・ピアース」(John Pierce) という芸名を与えた[2]。ジェイコブは決して身長が高いわけでもなく体格もやや幅広で、風貌もエスニック的であり、このことが聴衆に受け入れられるかということが心配の種であったが、ロサフェルは「世界で最もハンサムな男」というキャッチフレーズも添えてジェイコブをデビューさせた[2]。ほどなくしてジェイコブはロサフェルと相談の上で芸名を「ジャン・ピアース」に変更するが、この名前はロサフェルが創案した芸名と自身のアイデンディティーの妥協の産物であった[2]。以降、ジェイコブは「ジャン・ピアース」と名乗っての歌手活動と匿名での活動に専念することとなった[2]。本項では、この節以降、ジェイコブをピアースと表記することとする。なお、歌手活動に本腰を入れるに際して、ジュゼッペ・ボゲッティの門下となって勉学に励んだ[6][7]。
ラジオシティ・ミュージックホールを中心とするピアースの活動に転機が訪れたのは1938年のことである。ピアースは、前年1937年から活動を開始していたトスカニーニ率いるNBC交響楽団の演奏会に参加することになった。手始めに、1938年1月15日の放送演奏会でブゾーニの『ロンド・アルレッキネスコ』 (Rondo Arlecchinesco) で歌詞のない舞台裏の声の役で出演し[8][9]、次いで2月6日の基金コンサート[10]のためのオーディションを受験することとなって、その場で初めてトスカニーニと対面することとなった[9]。ピアースは、オーディションでドニゼッティ『愛の妙薬』から「人知れぬ涙」を歌ったが、ピアノ伴奏を務めたトスカニーニが出だしの部分でミスをしたことが印象に残った、とピアースは後年に回想している[9]。ピアースはオーディションに合格し、基金コンサートの本番ではヴィナ・ボヴィ、キルステン・トルボルクおよびエツィオ・ピンツァとともにベートーヴェンの交響曲第9番(第九)を歌った[8]。この公演以降、ピアースはトスカニーニのお気に入りのテノール歌手となり、1957年のトスカニーニの死まで親交が続くこととなった。
メト
トスカニーニのNBC交響楽団への出演の一方でオペラ出演への準備も進んだ。批評家や音楽ファンの間では「ピアースのメトへのデビューはいつか?」という議論が広がっていたが[11]、オペラ経験のないピアースのためにアリスが奔走した結果フィラデルフィア・スカラ・オペラ・カンパニーとの契約に至り、1938年12月10日にヴェルディ『リゴレット』のマントヴァ公爵を歌ってオペラ・デビューを果たした[3][11]。フィラデルフィアでは他にヴェルディ『椿姫』のアルフレード・ジェルモン、プッチーニ『蝶々夫人』のピンカートンを歌い、その他1939年にはニューヨークで初めてのソロ・リサイタルを開き、アメリカ全土にもおよんだ公演の合間には数多のオペラを勉強して素養を広げた[3][11]。1941年、ピアースはついにメトとの間で出演契約を結び、同じ年の11月29日に『椿姫』のアルフレード・ジェルモンでメトへのデビューを果たすこととなった[11]。批評家はこぞってピアースを賞賛によって迎え入れ、メトでは1968年までの27年間の間、337のオペラ上演に出演することとなった[3][11][12]。プッチーニ『トスカ』のカヴァラドッシ、『ラ・ボエーム』のロドルフォ、グノー『ファウスト』の表題役を手始めに、ドニゼッティ『ランメルモールのルチア』のエドガルド、ヴェルディ『運命の力』のドン・アルヴァーロおよびジョルジュ・ビゼー『カルメン』のドン・ホセを主要なレパートリーに加えた[3][5]。しかしながら、『アイーダ』のラダメス、ヴェルディ『イル・トロヴァトーレ』のマンリーコおよびワーグナー『ニーベルングの指環』のジークフリートといった重い役柄は熟慮の末、定着のレパートリーに加えることを拒絶した[5]。特に、ラダメスはトスカニーニが求めていたものであった[5]。
第二次世界大戦終結後、ピアースの活動は世界に広がることとなる。世界ツアーの一環でアフリカ、ヨーロッパ、カナダ、オセアニアなどを回ったが、特筆すべきは、冷戦真っ只中の1956年にアメリカ人歌手としては第二次世界大戦後初めてボリショイ劇場に出演したことである[5][11][13]。1958年4月には第1回大阪国際芸術祭(第2回以降の名称は大阪国際フェスティバル)のため来日[14][15]。また、『エド・サリヴァン・ショー』への出演など、テレビの世界にも進出していった[3]。
晩年
1968年にメトとの専属契約を終えたあと、ピアースは1971年にブロードウェイに進出し、『屋根の上のバイオリン弾き』のテヴィエ役でデビューした[3][16]。ブロードウェイでの活躍期間は長くはなかったが、『屋根の上のバイオリン弾き』以外では『ザ・ロスチャイルド』、"Laugh a Little, Cry a Little" といった作品に出演した[16]。1976年には、かつてリリースしたアルバムと同じ名前の自伝『幸せの青い鳥』 (Bluebird of Happiness) を出版して100万部を超える売り上げを記録し、ジョニー・カーソンやマーヴ・グリフィンらの深夜トーク番組の常連にもなった[5]。1982年5月2日、ピアースはオハイオ州デイトンで開かれたベス・アブラハム・ユース合唱団のコンサートに特別出演し、このコンサートを最後に現役を引退した[17]。ピアースは引退当時78歳であったが、全盛期と変わらぬ声を保っていたと報じられた[12]。その後は体調を崩し、1984年12月15日にニューヨーク州ニューロシェルの老人福祉施設内病院で80年の生涯を終えた[5][12]。墓はニューヨーク州ウエストチェスター郡ヴァルハラのマウント・エデン墓地にある[3]。
ピアースは、ヴァイン・ストリート1751番地にハリウッド・ウォーク・オブ・フェームの星(音楽)を刻んでいる[5]。
注釈
- ^ 6月3日の録音はトスカニーニの最後の指揮と録音の一つで、ネッリとともに第3幕の二重唱の再録音を行った(#三田 p.64)。
- ^ 『オテロ』ではラモン・ヴィナイ、『アイーダ』ではタッカー
- ^ 映画は冷戦期に『インターナショナル』の部分の映像が削除されており、DVDはそれに基づいている。しかし、『インターナショナル』の部分の映像は残存しており、外部リンクに当該部分を組み合わせたバージョンを置いているので、参照されたい。
出典
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- ^ #三田 p.69
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