ジェームズ1世 (イングランド王)
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人物・逸話
- de Lisleによれば、7歳までまともに歩けなかったという。チャールズ1世も歩き出すのが非常に遅かったため、何らかの遺伝病の可能性もある。
- 幼い頃、枢密院の玉座に座っていた際、屋根に穴を発見し「この議会には穴がある」と言ったところ、直後に重臣の一人が暗殺され、予言者との評判を得た[要出典]。
- 「ブリテンのソロモン王」の異名をとったが、それはソロモン王のように賢いというほめ言葉であると同時に、父親がダーンリーではなく母の秘書のデイヴィッド・リッチオだろう(デイヴィッド=ソロモンの父ダビデのこと)という悪口でもあった。この発言者はフランス王アンリ4世と言われている。また、「最も賢明で愚かな王」という発言もアンリ4世、あるいは彼の側近であるシュリー公マクシミリアン・ド・ベテュヌの物とされる[129][130][131]。
- 男色の愛人をしばしば重用、スコットランド王時代ではレノックス公、イングランド王時代ではブリストル伯ジョン・ディグビー、サマセット伯、バッキンガム公が愛人に挙げられる。彼等の存在は深刻なトラブルを招き、レノックス公の場合はリヴァンの襲撃、バッキンガム公は宮廷や議会の派閥抗争、サマセット伯に至っては殺人事件を引き起こしている(ブリストル伯のみ特に問題を起こしてはいない)[7][17][132][133][134]。
- 『バシリコン・ドーロン』で君主の振る舞いが人々の判断を左右させることを指摘、中庸を主とした質素な食事、テーブルマナーの礼儀正しさ、服装にも気を使うことを忠告している。反面、ジェームズ1世自身の振る舞いはそうした助言とは程遠い物で、礼儀作法が無い野蛮な言動を同時代人に記録されている。しかし人々が優雅な振る舞いに惑わされること、礼儀を人々の意識に植え付けることが秩序維持に役立つことを熟知しており、『バシリコン・ドーロン』は後世において参考にされるほど政治において重要な作品になっていった。また、服装がだらしなく、男色にふけり派手な宮廷生活に汚職とスキャンダルの噂が絶えないにもかかわらず、意見を率直に語り家臣には親しみやすく信頼されていた(対するチャールズ1世は父と全く違う性格で、妻子を大切にする家庭人で、質素な宮廷生活を送り、汚職を厳しく取り締まり、寡黙で近寄りがたい人間だった)[135][136]。
- 当代随一の知識人フランシス・ベーコンをイングランド王即位直後から目にかけ、ナイト叙爵をきっかけに翌1604年の特命の学識顧問官抜擢、1607年の合同論争で注目して法務次官に任命した。最終的に大法官まで昇進させ、爵位も子爵まで与えた。ベーコンも国王の側近として忠実に働き、しばしば議会との協調を呼びかけ、コークらコモン・ロー法律家と対立して国王大権擁護、法改革など助言と提案を重ね、1620年に著作『ノヴム・オルガヌム』を国王へ贈り、1621年に子爵に叙された時は国王へ感謝の言葉を述べている。ただし1621年議会でジェームズ1世はバッキンガム公を守るため、庶民院に弾劾されたベーコンをスケープゴートとして見放したため、完全に信頼していたとは言い難い(それでも弾劾されロンドン塔へ監禁されたベーコンを短期間で釈放させ、罰金も分割払いで済ませるなど失脚後のベーコンに便宜を図っている)[112][137][138][139][140][141]。
- 1611年にオックスフォード大学セント・ジョンズ・カレッジ学寮長の選挙が行われた際、学長のエレズミア男爵トマス・エジャートンから候補者のウィリアム・ロードをカルヴァン派が訴えているという話を伝えられたが、選挙実施を承認した結果ロードが当選した。それからは大学改革に邁進するロードを後押ししたり、猟官運動に励む彼を引き立て出世させたりしたが、内心はロードの急進的思想(高教会派)を懸念していたという。ロードはジェームズ1世からはあまり信頼されなかったがバッキンガム公の後援を得て、次の王チャールズ1世の下で更に出世することになる[142][143]。
- ヴェネツィア大使が本国の総督へ送った手紙でジェームズ1世の性格と対外観が書かれ、即位直後の1603年6月に送った報告でジェームズ1世がカトリックとプロテスタントの調停者を目指してカトリック諸国、特にスペインへの接近を計画していることを記した。一方で財政難であることも見抜かれ、1621年4月のヴェネツィア大使から総督への報告でジェームズ1世が軍資金が無いことを認めたことが書かれている。またジェームズ1世はベーコンが失脚した収賄が習慣と化していることを大使に話し、政府高官が収賄の習慣無しには生きていけない現状を語っている[144][145]。
- 1601年4月15日にスコーン・ロッジのフリーメイソンに加入している[146]。
- 1613年にジョン・セーリスが船長を務めるクローブ号がジェームズ1世からの書簡と贈呈品をもって日本の長崎、ついで平戸に到着した。当時、将軍職を退いて駿府城にいた徳川家康には望遠鏡(アジアに望遠鏡が伝わるのはこれが初めてだったとも言われる)、江戸にいる将軍徳川秀忠には金のカップとカバーとイングランド製の布地が贈られた。セーリスには、返礼として秀忠から2組の鎧、家康から金屏風が託された。またセーリスは家康の顧問を務めていた英国人ウィリアム・アダムス(三浦按針)の協力を得て、家康から朱印状(貿易許可証)を得て平戸にイギリス商館を開設している。1613年にクローブ号は帰国の途に就き、金屏風と鎧はジェームズ1世に届けられた。これをきっかけにジェームズ1世はアジアに関心を持ち、セーリスの航海日誌を5回も読んだといわれる[147]。
注釈
- ^ なお、1682年当時は経済的にも知名度も上であったイングランドには、大学が2つ(オックスフォード大学、ケンブリッジ大学)しか存在していなかった。
- ^ レノックス公はフランスのスパイとされていて、ジェームズ6世の母方の従叔父に当たるギーズ公アンリ1世への手紙でスペインおよびローマ教皇の支持と資金提供でイングランド侵略を図る計画を書き送り、スコットランド・フランスでイングランドを挟み撃ちにする計画が出来上がっていた。それを察知したエリザベス1世はスコットランド貴族にレノックス公失脚を命じたため、政変にはイングランドも一枚噛んでいた[16]。
- ^ この魔女狩りには政治性が付きまとい、ジェームズ6世は母方の従兄に当たる第5代ボスウェル伯フランシス・ステュアートを魔女集会を開いて国王暗殺を謀った容疑で追及、ボスウェル伯を亡命に追いやった。そのため裁判は政敵排除を狙った国王謀略説があり、以後の魔女裁判にジェームズ6世があまり関わらなくなった点からも、国王の裁判の関心は魔女より政敵にあった疑いが有力視されている。また1591年にボスウェル伯がホリールード宮殿へ侵入する事件が起こり、1592年にジェームズ6世の命令でハントリー伯がボスウェル伯の共犯として第2代マリ伯ジェームズ・ステュアートを殺害している。ちなみにハントリー伯はジェームズ6世の計らいでほとぼりが冷めるまで匿われ、解放後は侯爵に昇叙された。一方、ボスウェル伯はジェームズ6世がイングランドへ移ると、亡命先のイタリアからスコットランドへ帰国している[28][29][30]。
- ^ ジェームズ1世は、1609年のイングランド議会でも「王が神とよばれるのは正しい。そのわけは、王が地上において神の権力にも似た権力をふるっているからである。……王はすべての臣民のあらゆる場合の裁き手であり、しかも神以外のなにものにも責任を負わない」と演説している[32]。
- ^ 同君連合という都合上紋章を改訂する必要に迫られ、4分割した紋章の盾の左上の位置は優位の位置であり、イングランド・スコットランドどちらの紋章を置くかが問題になった。解決策として新たに2種類の紋章を改訂、イングランドではイングランドの紋章を左上に置いた紋章を、スコットランドではスコットランドの紋章を左上に置いた紋章を使い分けることにした。この伝統は現在も王室に引き継がれている[42]。
- ^ ジェームズ1世がスコットランドに戻らなかった理由はイングランドが居心地が良いから、スコットランドに比べて人口が5倍以上あり、政治・宗教制度・経済などスコットランドより進歩しているイングランドに惹かれた、何度も危機に遭遇したスコットランドよりイングランドが安全だと感じたからと諸説ある[47]。
- ^ エリザベスとフリードリヒ5世の結婚はジェームズ1世の目論見とは違い、ドイツのプロテスタント同盟にイングランドの後ろ盾を得たと思い込ませ、三十年戦争へ突入する皮肉な展開になった。フリードリヒ5世は舅の援助を当てにして戦争に参戦したが、ジェームズ1世には前述の通り援助が難しいため、援助を受けられず戦争に敗れて亡命する羽目になった[89]。
出典
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