シューティングゲーム 歴史

シューティングゲーム

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/18 08:20 UTC 版)

歴史

#年表を末尾に掲載したので、そちらも参照のこと。

黎明期

タイトーの西角友宏によって開発され、1978年に同社から発売されたアーケードゲームの『スペースインベーダー』は、それまでの、数分という決まった時間内で行うただの「的当て(まとあて)ゲーム」とは異なって、敵からの攻撃を避けつつ敵をすべて撃墜することを目的としており、上手な人は長くプレイできるゲームシステムを採用しており、後続のシューティングゲームにさまざまな形で影響を与えており「シューティングゲームの元祖(始祖)」と評価されている。スペースインベーダーは、ただ単に「シューティングゲームの元祖」となっただけでなく、世界的な大ヒット、いまだに塗り替えられていない記録的なヒットとなり莫大な額の売上をたたき出し、それまで小規模だったゲームの世界市場の規模を一気に大きくし、このジャンルだけでなく、ゲーム業界というものをそれまでとは異なったものへと変えた。また1980年には、同ゲームは米国のホームコンピューター(ゲームコンピューター)のAtari 2600のソフトウェアとしても正式にライセンスされ、同筺体の売上増進に大貢献し、世界初の「キラーアプリケーション」となった。

スペースインベーダーの大ヒットに追随し、それのゲームシステムをほぼそのまま取り入れつつ、敵の動きに変化をつけたりカラー表現を美しくする形で、1979年11月にはナムコから『ギャラクシアン』が発売され、こちらも大ヒットした。それに続く1980年代初頭の『バルーンボンバー』、『ムーンクレスタ』、『ギャラガ』などのコンスタントなヒットにより、(パックマン』、『ドンキーコング』などのアクションゲームとともに)シューティングゲームは当時のテレビゲーム界における主要なジャンルとして定着していった。

この時期はまだCPUのクロック周波数も低く、メモリの量もわずか数キロバイト程度と限られていて、処理能力が低かったので、この時期のシューティングゲームは全て、平面的なキャラクタを平面的に動かすタイプの「2Dシューティングゲーム」であった。

繁栄期

1980年代を迎えると、ビデオゲーム界の進歩の牽引役としてシューティングゲームは発展の一途をたどる。ゲームシステム、グラフィック、サウンド、難易度といった、ビデオゲームのあらゆる構成要素において、ハードウェアの技術革新に合わせ確実に進歩を加速させていくこととなった。ユーザーとしてのプレイヤーもそれにあわせて技能を磨き、「ワンコインクリア」や「ハイスコア」を目指すスタイルが定着。「敵を撃ち落とし、敵の弾を避ける」というシンプルでわかりやすいルール、パターンを解析し覚えた分だけ先の面へ進める・高い得点を取れるといった特質により、1980年代中頃にはアーケードゲームコンシューマーゲームの別を問わず、シューティングゲームはビデオゲームの中心ジャンルとして活況を呈するに至った。ゲーム会社はこぞってシューティングゲームを開発し、東亜プランなどのようにほぼシューティングゲーム開発専業のゲームメーカーも存在した。

2Dシューティングの衰退期

1980年代が終わろうとする頃、シューティングゲームの隆盛にもかげりが見え始めてくる。ゲームアイデアの出尽くし感やマンネリ化、回転率の悪さからくるオペレータの不満などにより、シューティングは次第にゲーム市場から歓迎されなくなっていった。それ以外にも、ロールプレイングゲーム対戦型格闘ゲームパズルゲームなど、他の比較的新興のゲームジャンルに次々にヒット作が生まれ、そちらの方へユーザーが流れていったこと、難化の一途をたどる難易度や一部メーカー(アイレム)の情報統制による攻略情報の不足などから「シューティングは難しい・とっつきにくい」というイメージが一般に定着してしまったことなど、複数の衰退要因があげられる。

特に『ストリートファイターII』・『バーチャファイター』を開祖とする対戦格闘ゲームは、回転率、時間あたりの満足度、初心者の入り易さ、キャラクター性でシューティングゲームより圧倒的に注目を集め、アーケードゲームの主流を一気に奪い去った。シューティングゲームは上級者が1コインで長時間プレイするため回転率が悪く、メーカー側が回転率を上げるために難易度を上げたゲームを発表すると今度は初心者が寄り付かなくなり、結果としてプレイヤー全体数の減少を招いた。そのため、対戦格闘の驚異的な回転率の高さもあって次第にオペレータに敬遠され、設置台数が減少した。そしてマニア化したプレイヤーは前例に倣わない革新作を歓迎しなくなり、大差のないマニア向けゲームしか作られず初心者離れが更に加速するという悪循環を生み出してしまう。それを象徴するのが、1994年の東亜プランの倒産であった。『R-TYPE』シリーズを売り出したアイレムも同年にアーケードゲーム事業から撤退し、『グラディウス』シリーズなどを展開していたコナミも1990年代後半には『BEMANI』シリーズなどの音楽ゲームに主軸を移した。

シューティングゲームから撤退するメーカーが相次ぐ中で、タイトーなど一部老舗メーカーは製作を継続し、ケイブ彩京ライジングのようにシューティングゲームに新たに参入するメーカーも現れた。これらのメーカーは初心者離れに危機感をもち、キャラクター性の強化、自動難易度調整、ボムの標準装備、1面の低難易度化などの施策を講じた。しかし、根本的な解決に至ることはなく、結局は初心者を取り込みつつも上級者が納得できるようなバランス調整に各メーカーは頭を悩ませることとなる。1990年代、2000年代にかけて少数の意欲作や特にガンシューティングゲームにおけるヒット作は散見されるものの広範なユーザー層の獲得には至っておらず、マイナー化・ニッチ化が進むこととなった。

3Dシューティングの勃興と大流行

「リアルな体験」が好まれる英語圏・欧米圏では早くから3Dシューティングを求める人々が多かった。1993年にはDOS向けに『DOOM』がリリースされ評判となった。真正の3D処理をするためにはハードウェア的に高い処理能力が必要なので、1990年代の段階ではそのため(だけ)に高性能PCを購入する必要があった。英語圏ではともかく「リアルな体験」指向が強いので、それの実現のためならばたとえ価格が高くても高性能PC(ゲーム用PC)を購入するという人々の数が多く、早くから3Dシューティングゲームの普及が進んだ。その後2000年代になるとコンシューマ・ゲーム機(つまりPSやXBOXなど)の側の高性能化が進み、わざわざ高性能PCまでは購入する気が無い、という人々の間でも3Dシューティングが普及してゆくことになり、世界的に3Dシューティングの普及が進んだ。2000年代ではFPSで「SFもの」としては『HALO』も大ヒット。FPSで、かつリアルな戦場ものとしては『バトルフィールド』や『コール・オブ・デューティ』が大人気となり、続編が次々とリリースされ「シリーズもの」となっていった。バトルフィールドやコールオブデューティは、近年でもPSやXBOXなどのゲームソフト売上の上位ランクの常連であり、世界中で膨大な数が購入され、膨大な数のプレーヤーによってプレイされつづけている。

#3Dシューティングゲームの節で解説。


2Dシューティンも制作されなくなった訳ではなく意欲作は度々登場している。 家庭用では『Everyday Shooter』や『Every Extend Extra』、『Blast Works』などがある。アーケード向けについては、日本では『トラブル☆ウィッチーズ』がゲームショウなどでロケーションを行い後に稼動[いつ?]、『exception』もAMIサクセス、スコーネック制作の新システム基板のソフトランナップに記載された。

オンライン配信対応のものについては、アーケードゲームでは2007年、コナミがオンラインに対応したシューティングゲームとして『オトメディウス』を販売した。2Dスクロール系のものでは『Valkyrie Sky』が日本では2010年からクローズドβテストを開始している。








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