カンピョーネ・ディターリア 名称

カンピョーネ・ディターリア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/14 17:20 UTC 版)

名称

町の名のカナ転記には、「カンピオーネ・ディタリア」[4]なども用いられる。

ローマ時代、Campiglio あるいは Campilionum と記された兵営都市の名がこの町の名の起源である。その名はラテン語「野」campus に関連付けられる。

なお、イタリア語の Campione (カンピオーネ、カンピョーネ)は、英語の Champion(チャンピオン)に相当する言葉でもある。優勝者の意味の語の語源も、campus である。

地理

位置・広がり

中央部の飛び地がカンピョーネ・ディターリア

コモ県中部の西方に位置するイタリア領の飛び地で、周囲はスイスティチーノ州に囲まれている。ルガーノ湖畔にあり、対岸はティチーノ州最大の都市ルガーノである。ルガーノからは湖を隔てて南南東へ4km、ヴァレーゼから北東へ20km、県都コモから北北西へ20km、州都ミラノからは北北西へ59kmの距離にある[5]

この飛び地とイタリア本土は、最も近いところで 約1km 離れている。しかし、山地によって隔てられているために、この町から最も近いイタリアの町ランツォ・ディンテルヴィまでは14 km、県都コモまでは28kmの陸路をたどらなければならず、途中スイス領に足を踏み入れることになる。ルガーノ湖畔にはイタリア領になっている場所もあるので、湖を隔てた飛び地とも言える。

隣接コムーネ

隣接するコムーネ(湖水を隔てたものも含む)は以下の通り。CHはスイス領、CH-TIはティチーノ州所属を示す。

隣接コムーネはいずれもティチーノ州のルガーノ郡英語版に属する。

地勢

西にルガーノ湖に面し、東には山のそびえる町である。

地震分類

イタリアの地震リスク階級 (itでは、4 に分類される [6]

歴史

古代

この地へ人が定住するようになった時期は、紀元前1世紀までさかのぼる。ローマ人たちが、ヘルウェティイ族の攻撃からローマの領土を守るために築いた Campiglio あるいは Campilionum とよばれる兵営都市が、この町の起源となっている。

中世

中世にはランゴバルド人(ロンバルディア)の支配下に入った。6世紀末から7世紀初頭にかけて、教皇グレゴリウス1世のもとカトリックの威信が高まったことで、この地にも改宗や教会への寄進の動きがあらわれるようになった。聖人ヴェローナのゼノ (Zeno of Veronaのためのバシリカ(聖堂)のための寄進について記した756年付けの文書が残っている。777年、この地のロンバルディア系有力者である Totone da Campione は死に際し、土地をミラノのサン・アンブロージョ修道院に寄進している。このことがこの町がイタリア領に残った要因といわれている[4]

中世においてカンピョーネは、コモやインテルヴィ (it:Val d'Intelvi(現在はいずれもコモ県)と並んですぐれた石工の出身地として知られた。12世紀から14世紀まで、"Maestri campionesi"(カンピョーネの工人)と呼ばれた職人たちの活動範囲は、イタリア北部のポー川流域を中心に、アルプス以北、フランス、イベリアにまで及んでいる。これには、山岳地帯の環境が過酷であるために、生計の場を外に求めざるを得なかったことが要因であるという。カンピョーネにルーツを持つ職人たちの移動とその建築・彫刻様式の伝承・変容は研究者の議論の活発な対象となっている[4]。著名な人物には、14世紀後半のボニーノ・ダ・カンピオーネ (it:Bonino da Campioneモデナ大聖堂に携わったアンセルモ・ダ・カンピオーネ (it:Anselmo da Campioneベルガモサンタ・マリア・マッジョーレ教会に関わったジョヴァンニ・ダ・カンピオーネ (it:Giovanni da Campioneなどの名が挙げられる。一方で、かれらの出身地であるカンピョーネに大規模な建築工房が設けられたことはなかった。ひとたび石工として村を出た人々が村に帰ることはなかったという[4]

16世紀初頭、ミラノ公国の支配下にあったティチーノ州スイス連邦に併合されたが、修道院領であったカンピョーネはこれに加わらなかった[4]。村自体についての詳細な記録はほとんど残されておらず、1596年に東南に隣接するアロニョとの土地をめぐる紛争があったことが知られる程度である。

近代

19世紀末のカンピョーネ

18世紀末、ナポレオン・ボナパルトフランス軍がスイス・イタリアに侵入した(フランスのスイス侵攻 (1798年)参照)。衛星国家として、1797年に北イタリアにチザルピーナ共和国が、1798年にスイスにはヘルヴェティア共和国がそれぞれ設立されたが、このときカンピョーネはチザルピーナ共和国に組み込まれた。チザルピーナ共和国はイタリア共和国イタリア王国と変遷してナポレオンの没落とともに崩壊してオーストリアの影響下に置かれ、ロンバルド=ヴェネト王国の一部となった。

1859年第二次イタリア独立戦争によって、ロンバルディアはイタリアの一部(ロンバルディア州)となり、この町はイタリアの領土となった。

町の名に「ディターリア」(イタリアの)が付け加えられたのは、1933年12月、ベニート・ムッソリーニ首相によってである。ムッソリーニはこの町をイタリアのショーウィンドウにすることに熱心であった。


  1. ^ 国立統計研究所(ISTAT). “Resident population on 1st January : Lombardia” (英語). 2021年5月10日閲覧。左側メニューのPopulation and Households > Population > Resident population on 1st January > Regions and municipalities より州を選択
  2. ^ 国立統計研究所(ISTAT). “Tavola: Popolazione residente - Como (dettaglio loc. abitate) - Censimento 2001.” (イタリア語). 2013年2月23日閲覧。
  3. ^ 国立統計研究所(ISTAT). “Tavola: Superficie territoriale (Kmq) - Como (dettaglio comunale) - Censimento 2001.” (イタリア語). 2013年2月24日閲覧。
  4. ^ a b c d e 児嶋由枝「カンピオーネ(イタリア)」『地中海学会月報』283号(2005年10月)
  5. ^ 地図上で2地点の方角・方位、距離を調べる”. 2016年12月19日閲覧。"comune di Como"で検索。
  6. ^ classificazione sismica 1 dicembre 2020” (xls). イタリア市民保護局. 2021年2月7日閲覧。
  7. ^ Comune di Campione d'Italia” (Italian). 2009年1月12日閲覧。 "... pur essendo territorio italiano Campione è doganalmente ed economicamente svizzero. Così pure la moneta e la rete telefonica. ("... although being Italian territory, Campione is customs-wise and economically Swiss. Also the currency and the telephone network.")
  8. ^ Rapporti tra il Cantone Ticino e il Comune di Campione d’Italia (Relations between Canton Ticino and Campione d'Italia) (Italian)”. 2008年8月11日閲覧。






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