エディ・パーキンス エディ・パーキンスの概要

エディ・パーキンス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/09 10:03 UTC 版)

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エディ・パーキンス
基本情報
本名 エディ・パーキンス
通称 リングの親善大使
階級 スーパーライト級
身長 165cm
リーチ 173cm
国籍 アメリカ合衆国
誕生日 1937年3月3日
出身地 ミシシッピ州クラークスデール
死没日 (2012-05-10) 2012年5月10日(75歳没)
プロボクシング戦績
総試合数 98
勝ち 74
KO勝ち 21
敗け 20
引き分け 2
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人物

1956年12月27日、ウィスコンシン州ミルウォーキーでノーマン・ジョンソンとの対戦でプロデビュー(6回判定負け)。

1957年4月17日、イリノイ州シカゴでの対ジェリー・ジョーダンと対戦し4回判定勝ち。

1961年6月12日、ベネズエラカラカスカルロス・モロチョ・エルナンデス英語版(ベネズエラ)とスーパーライト級10回戦に判定勝ちしたことが認められた。

1961年10月21日イタリアミラノで世界スーパーライト級王者デュリオ・ロイイタリア語版(イタリア)に挑戦。初の世界戦は15回1-1(69-70、71-71、71-69)と三者三様のドローに終わり王座獲得に失敗した。

その後2戦置いて、1962年9月14日、再び敵地ミラノでデュリオ・ロイとWBA世界スーパーライト級初代王座決定戦で対戦し、15回判定勝ちで初の世界王座獲得に成功した。

1962年12月15日、ロイとのリターンマッチに15回判定で敗れて王座から陥落した。

1963年6月15日、フィリピンマニラロベルト・クルス英語版(フィリピン)に挑戦、15回判定勝ちを収めWBA王座返り咲きとWBC王座獲得に成功した。

1964年1月4日、蔵前国技館で日本のリングに初登場。高橋美徳三迫ボクシングジム)の挑戦を受け、13回1分33秒KO勝ちを収め初防衛に成功した。

1964年4月18日、ジャマイカキングストンでベニー・グラント(ジャマイカ)に判定勝ちして2度目の防衛に成功した。

1965年1月18日、かつて対戦したカルロス・モロチョ・エルナンデスに15回判定負けし、WBA・WBC王座の2度目の防衛に失敗し王座から陥落した。

パーキンスは世界王座陥落後も現役を続けた。日本では辻本英守、ライオン古山龍反町と対戦してそれぞれ勝ち、格の違いを示したり、ホセ・ナポレスニコリノ・ローチェアンヘル・エスパダなど後の世界王者と拳を交えた。世界五大陸の23か国45都市で戦い、母国である米国での試合の多くは相手のホームで行い、『リングの親善大使』という異名が付けられている[1]

1974年11月11日、来日して辻本章次に10回戦で判定負け、これは日本選手に対する唯一の黒星である。

1975年5月30日、フランツ・サンドル(オーストリア)に8回判定で敗れたのを最後にリングを去った。

2006年には世界ボクシング殿堂に顕彰された。

晩年は糖尿病認知症に悩まされていた。2012年5月10日、シカゴの自宅で死去[2][3]。75歳没。

戦績

プロボクシング 戦績
98 試合 (T)KO 判定 その他 引き分け 無効試合
74 21 53 0 2 0
20 1 19 0



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