イリュリア州 歴史

イリュリア州

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/05 10:12 UTC 版)

歴史

ヴァグラムの戦いで敗北していたオーストリア帝国が、1809年のシェーンブルン条約ケルンテン公国カルニオラ公国サヴァ川以南のクロアチア王国フリウリ地方(ゴリツィア・グラディスカ公国)、帝国自由都市トリエステをフランスへ割譲したことで成立した。[1]これらの領土はアドリア海の北から東にかけて続き、ダルマチアと連合してイリュリア州となった。事実上フランスの一部であり、州都はリュブリャナスロベニア)となった。ラグーサ共和国領は1808年にフランスに併合され、イリュリア州にまとめられた。

1811年、イリュリア州を含むフランス帝国
初代イリュリア州総督オーギュスト・マルモン

総督が治めるフランス行政府は、州の至る所にフランス民法典を導入した。オーギュスト・マルモンが1809年10月に初代州総督に任命され、彼は1811年1月までその地位にあった。1811年4月9日、アンリ・ガティアン・ベルトランが後任となり、1812年2月に3代目総督ジャン=アンドシュ・ジュノーが着任した。4代目で最後の総督となったのはジョゼフ・フーシェで、彼は1813年7月に任命されわずか1ヶ月在任しただけだった。オーストリアが侵攻してきたためである。

イギリス海軍は、ティルジット条約以降効果的なアドリア海封鎖を行い、商船を停止させ、ダルマチア沿岸諸都市の経済に深刻な影響を与えた。フランス=イタリア連合軍が、イギリス海軍が押さえたヴィス島を確保しようとしたが、1810年10月22日に失敗した。再度ヴィス島上陸を狙うが、1811年3月のリッサ海戦でイギリスの艦隊に大敗を喫した。

リッサ海戦

1813年8月、オーストリアはフランスに宣戦布告した。フランツ・トマシュヒ率いるオーストリア軍はイリュリア州へ侵攻した。クロアチア軍は、かつての宗主国に銃口を向けフランス側へついた。34日間の包囲後、ザダルは1813年12月6日にオーストリアへ降伏した。ドゥブロヴニクでは暴動でフランス人が追放され、ラグーサ共和国復活を願ってラグーサ州行政が設置された。ドゥブロヴニクは1813年9月にオーストリア軍が占領した。コトル湾と周辺部は1813年にモンテネグロ君主国が占領した。オーストリア軍は、モンテネグロ主教公へ6月11日にオーストリア行政下の領土を委任した。1815年6月にワーテルローの戦いで勝利したイギリスは、7月に入ってから占領していたダルマチア諸島から退却した。


  1. ^ 佐藤堅司『ナポレオンの政戦両略研究』愛宕書房、昭和19-11-20、335頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1460289 





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