救世観世音菩薩
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/01/04 11:31 UTC 版)
救世観世音菩薩(ぐぜかんぜおんぼさつ)は、一般に救世観音と称されるが、平安時代の法華経信仰から広まった名称で、救世観世音菩薩という名称は経典には見えない[1]。
救世は「人々を世の苦しみから救うこと」であり、救世だけで観音の別名ともされる。救世観音の名称の由来は「法華経」の観世音菩薩普門品の中の「観音妙智力 能救世間苦」との表現にあると推測され、法華経信仰が平安時代に盛んになったこと、さらには聖徳太子の伝説が付帯されることで、この尊名が生まれ、民間で定着したと考えられている[1]。
秘仏と公開
法隆寺の救世観世音菩薩像は、200年間[注 1]公開されていなかった厳重な秘仏で、1884年(明治17年)、国から調査の委嘱を受けたアーネスト・フェノロサが、夢殿厨子と救世観音の調査目的での公開を寺に求め、長い交渉の末、公開されたものである。後に著作『東亜美術史綱』で像影の写真付きで公刊されている。回扉されると立ったまま500ヤード(約457メートル)の木綿の布で巻かれた状態で、解くとすごい埃とともに「驚嘆すべき世界無二の彫像は忽ち吾人の眼前に現はれたり」と表現している[2]。また「200年」という期間については曖昧で、アーネスト・フェノロサが公開時に僧侶から聞いた噂話を書籍に載せたものとされている[3]。救世観音が造られたのは飛鳥前期。聖徳太子の等身とも伝わる像で、平安以降は太子信仰の象徴とされ、元々造立当初から半分秘仏のような扱いだった。そして鎌倉初期の1227年。法要行事の一つ、勝鬘会の本尊として、本像の模造を造ろうとした時を最後に、既に完全秘仏になっていたとされている[4]。
作例
脚注
- ^ a b 改訂新版『世界大百科事典』「救世観音」: kotobank
- ^ アーネスト・フェノロサ『東亜美術史綱』上巻 上野公園内東京美術学校内・フェノロサ氏記念会 1921年(大正10年) p.91
- ^ いかす・ならトップ・明治150年記念:奈良の近代化をささえた人々『フェノロサ』:奈良県2026年1月4日閲覧
- ^ 『和空法隆寺』2023年4/11-5/18救世観音像特別公開2026年1月4日閲覧
注釈
- ^ 議論あり。後述
救世観音と同じ種類の言葉
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