鄭国渠
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/27 00:54 UTC 版)
鄭国渠(ていこくきょ)は、中国・戦国時代末期、秦に建設された灌漑水路である。水利技術者の鄭国によって建設されたことからこの名がある。
注釈
- ^ この経緯は『史記』河渠書の記事による。鶴間は鄭国が摘発された事件について「真相の判断は難しい」[2]、高度な技術が用いられた鄭国渠を間諜の事業とするのは疑わしい[3]と述べている。鶴間は、黄河中下流域で発展した高度な水利土木技術を呂不韋が牽引して移入したという見方を示している[4]。
- ^ この年に使用が開始されたと記されることもある[7]
- ^ 工事中に起こった鄭国の間諜事件を、鶴間は紀元前238年の嫪毐の乱前後としている[5]。
- ^ 全長150km[10]、幹線水路で150km[6]、全長200km近く[11]など、異なる数字も挙げられている。
- ^ 「四万余頃」の面積の現代の単位への換算については、このほかいくつかの異なる数字が挙げられている。67,000ha[6]など。1頃=約4.5haとして[12][13]、約18万ha[9][10]という数字が示されることもある。
- ^ 鶴間によれば、乾燥により地下水位が上昇して地上に噴き出た塩分を、涇河の泥水で洗い流す仕組み、という[3]。
- ^ 鶴間によれば、乾燥地域の作物は粟や小麦である[8]。
- ^ 鄭国渠と涇恵渠の継続性について、鄭国渠が名を変えて現役である[2]、鄭国渠の灌漑施設が引き継がれている[6]、という描かれ方もされる。
出典
- ^ 鶴間和幸 2015, pp. 42-46.
- ^ a b 鶴間和幸 2015, p. 42.
- ^ a b c d 鶴間和幸 2015, p. 47.
- ^ 鶴間和幸 2015, pp. 49-50.
- ^ a b 鶴間和幸 2015, p. 43.
- ^ a b c d e f g h “伝統的農業水利施設(中国 涇恵渠(テイコクキョ))”. 農林水産省. 2017年4月17日閲覧。
- ^ Pierre-Etienne Will(魏丕信)著,王湘雲譯:〈軍閥和國民黨時期陝西省的灌漑工程與政治〉,載《法國漢學》,第九輯(北京:中華書局,2004),268ページ。
- ^ a b c d e f g h i 鶴間和幸 2015, p. 48.
- ^ a b c 重近啓樹. “鄭国”. 日本大百科全書(ニッポニカ)(コトバンク所収). 小学館. 2017年4月17日閲覧。
- ^ a b c d e f “鄭国渠首遺址”. 咸陽市観光局. 2017年4月21日閲覧。
- ^ “鄭国渠(世界大百科事典内の鄭国渠の言及、【治水】より)”. 世界大百科事典(コトバンク所収). 2017年4月21日閲覧。
- ^ “鄭国渠”. 世界大百科事典(コトバンク所収). 2017年4月21日閲覧。
- ^ “鄭国渠”. ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典(コトバンク所収). 2017年4月21日閲覧。
- ^ 鶴間和幸 2015, pp. 47-48.
- ^ Will:〈軍閥和國民黨時期陝西省的灌漑工程與政治〉,269ページ。
- ^ Will:〈軍閥和國民黨時期陝西省的灌漑工程與政治〉,269ページ。
- ^ a b 『漢書』溝洫志
- ^ a b 駒井正一. “涇恵渠 (世界大百科事典内の涇恵渠の言及、【渭水】より)”. 世界大百科事典(コトバンク所収). 2017年4月20日閲覧。
[続きの解説]
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