Yuan Canとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > Yuan Canの意味・解説 

袁粲

(Yuan Can から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/08 14:53 UTC 版)

袁 粲(えん さん、永初元年(420年)- 昇明元年12月23日[1]478年1月12日))は、南朝宋官僚政治家は景倩。もとの名は愍孫。本貫陳郡陽夏県後廃帝を後見して朝政を掌握したが、蕭道成に敗れて身を滅ぼした。

経歴

袁濯(袁豹の子)と王氏のあいだの子として生まれた。幼くして父を失い、祖母がかれを哀れんで愍孫と名づけた。揚州従事を初任とした。武陵王劉駿の下で安北・鎮軍・北中郎行参軍を歴任し、侍中郎主簿となった。元嘉30年(453年)、劉駿が劉劭の乱を討つべく起兵すると、愍孫は記室参軍に転じた。孝武帝(劉駿)が即位すると、愍孫は尚書吏部郎・太子右衛率・侍中となった。孝建元年(454年)、孝武帝が群臣とともに中興寺の八関斎で昼食を終えると、愍孫はさらに魚肉を進上して食べさせようとした。このため糾弾を受けて免官された。孝建2年(455年)、廷尉・太子中庶子として再起し、右軍将軍の号を加えられた。孝建3年(456年)、西陽王劉子尚の下で北中郎長史となり、輔国将軍・広陵郡太守をつとめ、兗州の事務を代行した。

大明元年(457年)、再び侍中となり、射声校尉を兼ね、興平県子に封じられた。大明3年(459年)、山陰県の丁彖文から賄賂を受け取って、会稽郡の孝廉に推挙した罪により、免官された。まもなく西陽王劉子尚の下で撫軍長史となり、さらに再び太子中庶子となり、左軍将軍の号を加えられた。大明4年(460年)、豫章郡太守として出向した。大明5年(461年)、召還されてまた侍中となり、長水校尉を兼ねた。左衛将軍の号を受け、給事中の任を加えられた。大明7年(463年)、左衛将軍のまま吏部尚書に転じた。この年、皇太子劉子業が加冠の儀式を迎え、孝武帝が東宮で宴を開いたとき、愍孫が勧めた酒を顔師伯が飲まなかったことから争いとなり、孝武帝の怒りを買って、海陵郡太守に左遷された。

大明8年(464年)、孝武帝の崩御により前廃帝劉子業が即位すると、愍孫は御史中丞に任じられたが、受けなかった。再び吏部尚書となった。永光元年(465年)、右衛将軍の号を受け、給事中の任を加えられた。同年(景和元年)、また侍中となり、驍騎将軍の号を加えられた。同年(泰始元年)12月、司徒左長史に転じ、冠軍将軍・南東海郡太守を兼ねた。

愍孫は幼いころから荀粲(字は奉倩)の為人を慕っており、粲と改名したいと孝武帝に願い出ていたが、許可されなかった。明帝劉彧が即位してこのことを請願すると、許可を受けて粲と名を改め、字を景倩とした。泰始2年(466年)、領軍将軍となった。この年のうちに中書令に任じられ、太子詹事を兼ねた。泰始3年(467年)、尚書僕射に転じた。まもなく吏部を兼ねた。泰始5年(469年)、中書令の任を加えられ、丹陽尹を兼ねた。泰始6年(470年)、明帝が華林園の茅堂で『周易』を講義したとき、袁粲が執経をつとめた。知東宮事を兼ね、尚書右僕射に転じた。泰始7年(471年)、右僕射のまま太子詹事を兼ねた。受けないうちに、尚書令に転じた。江州刺史の江柳の罪に連座して、守尚書令に降格された。

泰豫元年(472年)、明帝の崩御にあたって、袁粲は褚淵や劉勔らとともに後事を託された。後廃帝劉昱が即位すると、袁粲は朝政を後見した。元徽元年(473年)、母の王氏が死去し、葬儀を終えると、喪中にあって無官のまま職務を続けた。衛将軍の号を加えられたが、受けなかった。

元徽2年(474年)、桂陽王劉休範が反乱を起こし、反乱軍が南掖門に迫ると、袁粲は士気の低い諸将を叱咤し、褚淵とともに死命を尽くすことを表明した。このため陳顕達らが出戦して反乱軍を殲滅した。反乱が鎮圧されると、袁粲は中書監に任じられ、開府儀同三司の位を加えられ、司徒を兼ねた。元徽3年(475年)、衛将軍・開府のまま尚書令に転じた。いずれの官も固辞したが、服喪を終えると、ようやく受けた。侍中の任を加えられ、爵位は侯に進められたが、また受けなかった。この頃、袁粲は蕭道成・褚淵・劉秉とともに宮中に宿直し、朝政のすべてを決裁して、「四貴」と称された。

元徽5年(477年)7月、順帝が即位すると、袁粲は司徒・侍中のまま中書監に転じた。同年(昇明元年)8月、蕭道成は東府にあり、袁粲を石頭城に駐屯させることとした。袁粲は朝命にあまり従わず、迫られてやむをえなくなってから就任することが多かったが、このときは石頭城への移鎮を求める詔に素直に従った。12月壬申(478年1月12日)、荊州刺史の沈攸之が蕭道成打倒のために挙兵すると、袁粲はこれに呼応して石頭城で起兵した。劉秉・劉述・王蘊らが呼応して石頭城に赴いた。劉韞(劉秉の従弟)・卜伯興らが宮中で呼応したが、蕭道成に殺害された。蕭道成の部下の薛淵戴僧静らが石頭城を攻撃してくると、石頭城は陥落して、袁粲は子の袁最とともに斬られた。享年は58。

脚注

  1. ^ 『宋書』巻10, 順帝紀 昇明元年十二月壬申条による。

伝記資料

  • 宋書』巻89 列伝第49
  • 南史』巻26 列伝第16

「Yuan Can」の例文・使い方・用例・文例

Weblio日本語例文用例辞書はプログラムで機械的に例文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「Yuan Can」の関連用語

Yuan Canのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



Yuan Canのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの袁粲 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
Tanaka Corpusのコンテンツは、特に明示されている場合を除いて、次のライセンスに従います:
 Creative Commons Attribution (CC-BY) 2.0 France.
この対訳データはCreative Commons Attribution 3.0 Unportedでライセンスされています。
浜島書店 Catch a Wave
Copyright © 1995-2025 Hamajima Shoten, Publishers. All rights reserved.
株式会社ベネッセコーポレーション株式会社ベネッセコーポレーション
Copyright © Benesse Holdings, Inc. All rights reserved.
研究社研究社
Copyright (c) 1995-2025 Kenkyusha Co., Ltd. All rights reserved.
日本語WordNet日本語WordNet
日本語ワードネット1.1版 (C) 情報通信研究機構, 2009-2010 License All rights reserved.
WordNet 3.0 Copyright 2006 by Princeton University. All rights reserved. License
日外アソシエーツ株式会社日外アソシエーツ株式会社
Copyright (C) 1994- Nichigai Associates, Inc., All rights reserved.
「斎藤和英大辞典」斎藤秀三郎著、日外アソシエーツ辞書編集部編
EDRDGEDRDG
This page uses the JMdict dictionary files. These files are the property of the Electronic Dictionary Research and Development Group, and are used in conformance with the Group's licence.

©2025 GRAS Group, Inc.RSS