姚襄
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姚 襄(よう じょう、331年[1] - 357年5月)は、五胡十六国時代の羌族酋長。字は景国。姚弋仲の五男で、後秦の創建者姚萇の兄である。
- ^ 『晋書』・『資治通鑑』によると、姚襄は357年に27歳で亡くなり、姚萇は393年に64歳で亡くなっている。これらが正しいとすると、弟のはずの姚萇の方が先に生まれた事になり、史書に何らかの誤りが含まれているのは確実である
- ^ 『晋書』では平丘郡公と、『資治通鑑』では平郷県公と記される
- ^ 但し、この事は『晋書』にしか記載されていない
- ^ 『十六国春秋』では、殷浩はその部下を夜闇に紛れて伏兵として配し、姚襄を邀撃しようとしたが、姚襄に見破られた。そのため、謝万を派遣して姚襄を追撃させ、山桑まで至ったが、姚襄が兵を率いて迎え撃ち、殷浩を大敗させるという流れになっている
- ^ a b c 『資治通鑑』では姚益生と記載される
- ^ 『十六国春秋』では郭斁と記載される
- ^ 『晋書』では堂邑内史と、『十六国春秋』では唐邑内史と記される
- ^ 『資治通鑑』では英名と記載される
- ^ 『晋書』では「公の英略は天下を蓋い、士衆はみな死力を尽くさんとしております。しかしながら、その威を損って衆を苦しませる事が出来ず、今はただこの孤城の周辺に居座っているだけです。河北に引き返して、遠略を図るべきです」と記載される
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