リカルド・パトレーゼ(イタリア)
1972年にイタリア国内チャンピオン、74年にワールドチャンピオンと、カートのビッグタイトルを勝ち取り、75年から4輪に転向。フォーミュラ・イタリアを経て76年にはF3でイタリア選手権とヨーロッパ選手権を制覇。77年にはF2へとステップアップ。同年のモナコGPでF1デビューを果たした。以来、アロウズ、ブラバム、アルファロメオ、ウィリアムズ、そしてラストシーズンとなった93年のベネトンと、6つのチームを渡り歩きながら256戦ものGPレースに出走するという、前人未到の記録を打ち立てることになった。ただし、89~92年のウィリアムズ・ルノー以外は、決してマシンのポテンシャルに恵まれていたわけでもなく優勝はわずか6回。シリーズ成績でも92年の2位がベストだった。
リカルド・パトレーゼ
(Riccardo Patrese から転送)
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リカルド・ガブリエーレ・パトレーゼ(Riccardo Gabriele Patrese、1954年4月17日 - )は、イタリア・パドヴァ出身の元レーシングドライバー。
注釈
- ^ 1977年の富士での日本グランプリ出走者で、10年後の鈴鹿でも現役だった唯一のドライバーである。
- ^ 当時はレース途中での燃料補給が可能であった。
- ^ 2018年にキミ・ライコネンが5年・113戦ぶりの優勝を記録。レース数はライコネンが上だが、年数では7年でこちらが上となる。
- ^ タイムでは上回ったものの、車両規定違反で後方に回された第11戦ベルギーグランプリを勝利に含めれば10勝6敗。
- ^ ただし、マンセルのタイヤの摩耗が少なかったことから交換は不要と判断され、実際にはパトレーゼはタイヤ交換を行わなかった。
- ^ 結果、当時テストドライバーだったデビッド・クルサードがセナの後任となった(中盤のフランスグランプリと終盤3戦はマンセル)。
出典
- ^ インタビュー リカルド・パトレーゼ 200回目のグリーンシグナル グランプリ・エクスプレス イギリスGP号 9-11頁 1990年8月4日発行
- ^ a b リカルド・パトレーゼ 200回目のグリーンシグナル by Pino Allievi グランプリ・エクスプレス '90イギリスGP号 9-11頁 1990年8月4日発行
- ^ a b “スパ24時間:カストロール・ホンダ、リカルド・パトレーゼとロイック・デパイエを起用”. auto sports web 2018年7月17日. 2020年12月10日閲覧。
- ^ “スパ24時間:ワーケンホルスト34号車BMWがローヴェとの同門対決を制す。ニッサンGT-Rは7位入賞”. auto sports web 2018年7月29日. 2020年12月10日閲覧。
- ^ “190戦目、F1史上最も遅い初優勝……ペレス「この勝利は“実力”で手にした」”. Motorsport.com 12月7日. 2020年12月10日閲覧。
- ^ A DAY IN SCENE 1977 JAF SUZUKA GP レーシングオン No.019 1987年11月号 131頁 武集書房
- ^ R.パトレーゼ「今年はターボ勢を相手に最高のチームで闘える」F1GPX1988年ブラジルGP号 山海堂 1988年4月23日発行
- ^ F1倶楽部[特集]レーサーの死 1995年10月 28頁-29頁、双葉社
- ^ F1ドライバー・スキー週間セストリエールGP Feb.19-26 F1 1989年第1戦ブラジルGP号 P10-11 山海堂
- ^ RACER'S SEASON OFF パトレーゼ 超過密スケジュールを縫ってのトレーニング! F1グランプリ特集 1990年2月号(Vol.20)60頁-63頁、CBSソニー出版
- ^ リカルド・パトレーゼ、知る人ぞ知る趣味は電車のコレクション ドイツ製の貨車や鉄橋がズラッと並ぶ F1グランプリ特集 1990年2月号(Vol.20)63頁、CBSソニー出版
- ^ F1 Driver's Hobby 世界を股にかける男たちの余暇の楽しみかた 1988F1日本グランプリ オフィシャルプログラム 67頁 (株)鈴鹿サーキットランド発行
- ^ a b c d JAF(日本自動車連盟)ライセンスではない外国ライセンスドライバーはポイント対象外。
- 1 リカルド・パトレーゼとは
- 2 リカルド・パトレーゼの概要
- 3 エピソード
- 4 レース戦績
- 5 脚注
- Riccardo Patreseのページへのリンク