織田秀信
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織田 秀信(おだ ひでのぶ)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将、キリシタン大名。織田信忠の嫡男、織田信長の嫡孫。岐阜城主。織田政権三代当主。官位は正三位中納言で岐阜中納言とも呼ばれた。
注釈
- ^ 羽柴秀吉による周旋や柴田勝家による反対は後世の創作で、実際には信長存命中より織田氏嫡流に家督と天下人の地位を継がせる(信忠の次は三法師が後継者となる)方針[2]があり、その方針に従ってその織田氏嫡流の後継者である三法師がいる清州城に織田氏の一族と重臣が集まって今後の方針を決める「清州会議」が開催されたとする説もある[3]。
- ^ 豊臣の「秀」を織田の「信」の上に配したところに、地位の逆転が読み取れる。さらに曽祖父織田信秀と逆なのも異様である。
- ^ 文禄元年時点で、織田秀雄は越前国大野城5万石(異説には近江国大溝城)を与えられており、同年秋に秀信が美濃国岐阜城に13万石を与えられたことで立場が逆転している。
- ^ 柴裕之の『清須会議』にて論じられた織田氏家督の流れを一つに纏めると、清須会議では信長の生前の意向に従う形で「織田信長-信忠-三法師(秀信)」の方針が決定されたが[3]、豊臣政権成立後にこれを「織田信長-信雄-秀雄」に変更した[12]。しかし、文禄元年の秀信の岐阜入城を機に今度は「信長-秀勝(於次)-(豊臣)秀勝(小吉)-秀信」に再変更した[11]、ということになる。
- ^ この役において家臣・井戸覚弘が現地より井戸茶碗の原型となる器を持ち帰ったという伝説があるが、信憑性は薄い。
- ^ 同記では同月11日に兵5,000をつれて到着した丹波中納言を死んでいるはずの「秀勝」と誤記しているが、「山口玄蕃允供し侍る」の記述からみても小早川秀秋のことであるから、「秀俊」の間違い。
- ^ 加増が実施された場合、最低でも50万石超の知行高になり宇喜多秀家、佐竹義宣らの石高に匹敵する。また父・織田信忠の領国が美濃・尾張だったことから旧領回復織田家再興の意味もあった。
- ^ 秀信が剃髪をした浄泉坊の後身である岐阜市神田町の円徳寺は織田家ゆかりの寺であり、秀信の出家の際の髪切り塚が存在し、秀信の肖像画と彼の着用と伝えられる烏帽子型兜が現在も残っている。他の遺品は多くが岐阜市歴史博物館などに寄託されている。
- ^ 秀吉による小牧・長久手の戦いの後浪人した信雄の家臣が多く秀信、正則の家中に仕えたため、親兄弟、伯父甥で戦った者も少なくなかった。
- ^ 岐阜善光寺に分身が祀られる善光寺如来は武田信玄も保護しており、旧武田勢力の慰撫の一面もあったと思われる。
出典
- ^ 『西山家文言覚書秘伝録』
- ^ 柴裕之『織田信長 戦国時代の「正義」を貫く』平凡社〈中世から近世へ〉、2020年12月、235-236・267-268頁。ISBN 978-4-582-47747-4。
- ^ a b 柴 2018, pp. 32–46.
- ^ 『多聞院日記』
- ^ 柴 2018, pp. 90–91.
- ^ 『近世日本国民史』
- ^ 『聚楽行幸記』
- ^ 東京帝国大学文学部史料編纂所 編「国立国会図書館デジタルコレクション 豊臣秀吉小田原陣陣立」『大日本古文書. 家わけ 三ノ一(伊達家文書之一)』東京帝国大学、1908年 。
- ^ 柴 2018, pp. 98–100.
- ^ 柴 2018, pp. 90–91, 100–101.
- ^ a b 柴 2018, pp. 100–101.
- ^ 柴 2018, pp. 90–91, 98–100.
- ^ 白峰旬 著「文禄の役における仕置きの城の存在形態について」、黒田慶一 編『韓国の倭城と壬辰倭乱』岩田書院、2005年4月。ISBN 978-4872943665 。
- ^ 吉村 1934, pp. 155–156.
- ^ 村川浩平『日本近世武家政権論』日本図書刊行会、2000年6月、28頁。ISBN 978-4823105289。
- ^ 吉村 1934, p. 173.
- ^ 『改正三河後風土記』
- ^ a b 「補任勘例」より。 - 矢部健太郎「小早川家の「清華成」と豊臣政権」『国史学』第196巻、2008年12月、63-98頁。
- ^ 『日本逸話大事典』 第3巻 頁912「織田秀信卿の沈勇二話」
- ^ a b 結城了悟『キリシタンになった大名』聖母の騎士社〈聖母文庫〉、2004年5月。ISBN 978-4882161776。
- ^ 『岐阜県史』
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