833年〜834年の反乱
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「ベルナール・ド・セプティマニー」の記事における「833年〜834年の反乱」の解説
833年、今度はロタールが反乱を起こした。ピピン、ベルナールおよびゴーセムはこの時点ではルートヴィヒに従っていた。ロタール軍が敗北し、834年3月1日に権力が再びルートヴィヒに戻ったのち、ベルナールはルートヴィヒのために兵を失ったことを訴え、所領の回復をルートヴィヒに願い出たが、ベランジェが依然として合法的に領地を支配していた。このため、皇帝はベルナールに対する所領の回復をためらっていたが、835年6月にベルナールとベランジェをリヨン近くのクレミューで行われた会議に招集し、判断を伝えることとした。ところが、ベランジェがこの招集に向かう途中で突然死去したので妨げがなくなり、皇帝はセプティマニアとその伯領、およびトゥールーズをベルナールに与えた。スニエー1世およびアラリックにそれぞれ与えられていたアンプリアスとルシヨン、そしてアスナール・ガリンド1世によりトゥールーズから切り離され奪われていたウルジェイおよびサルダーニャは、ベルナールに返還されなかった。カルカソンヌ伯オリバ1世の弟スニフレ1世がアスナール・ガリンド1世を追い出すためにウルジェイおよびサルダーニャ伯に任ぜられた。 ベルナールは自領に戻ったが、かつてはベラを、次にベランジェを支持した領内のゴート人はまたもベルナールと対立した。838年9月、キイジー=シュル=オアーズの会議でベルナールに対する10の告訴がなされた。841年以降、ベルナールは帝国内の争いに参加するためしばしば領地を留守とし、それぞれの副伯に土地の監督をゆだねた。
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