黒田の再反論と深化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 03:50 UTC 版)
2011年から12年にかけて、黒田は米倉の説を受け継ぎ、神護寺三像に絡んだ論考を相次いで発表している。黒田は、神護寺三像を語る際、「肖像画の最高傑作の一つである伝頼朝像を論ずること」と「歴史上の人物である源頼朝に一番ふさわしい肖像・イメージは何か」ということは厳密に分けて考えるべきだが、両者が混線して無用の混乱を起こしていると考えた。そこでまず、『源頼朝の真像』で甲斐善光寺にある「木造源頼朝坐像」の胎内銘を読み解き、13世紀の第1四半期頃に北条政子が願主となって作られた、確実に頼朝を表した唯一の像である事を示した。これで、神護寺三像を源頼朝像と言い続ける必然性も必要性も無くなったとし、12年の『国宝神護寺三像とは何か』で集中的に論述する。
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