黒子 (氏族)とは? わかりやすく解説

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黒子 (氏族)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/25 04:58 UTC 版)

黒子氏
揚羽蝶もしくは蟹紋
本姓 桓武平氏貞季流
家祖 山田親業
種別 武家
主な根拠地 山田城(下野国塩谷郡)
支流、分家

伊予二神氏

下野黒子氏
凡例 / Category:日本の氏族

黒子氏(くろこし)は、日本の氏族。治承・寿永の乱で宇都宮家に其の身柄を預けられた平貞能をその源流とする。[1]

山田泰業。山田氏は祖を平貞能とし宇都宮家に仕え、天正13年に薄葉ヶ原の戦いで辰業が那須家の神田次郎に討たれたれるまで栃木県の根古屋城(山田城)を支配した。滅亡後、子の親業らは名を黒子とし北関東に四散した。(出典山田環住来記)

概要

平氏滅亡後の元暦2年(1185年)6月、貞能は縁者の宇都宮朝綱を頼って鎌倉方に投降する。朝綱は自らが平氏の家人として在京していた際、貞能の配慮で東国に戻ることができた恩義から源頼朝に助命を嘆願した。

この助命嘆願について『吾妻鏡』( 元暦二年七月七日條)に記載がある。一度は「平家近親の者で謀反の恐れも無きにしも非ず」と許されなかった。しかし、朝網が何度も「もし貞能が叛逆を企てることがあれば、永遠に朝網の子孫を断絶させてよろしい」と申し出たことで認められた。貞能の身柄は朝綱に預けられた。

その後、子孫は宇都宮氏に仕えることになる。200年程経過し宇都宮氏より塩谷氏へ、文明10年(1478年)正月18日に宇都宮孝綱が養子として行き、その付家老として貞能の子孫、山田筑後守泰業が山田城の城主となった。[2]

天正13年(1585)3月薄葉ヶ原合戦で宇都宮勢二千五百余騎、那須勢一千余騎が薄葉ヶ原で激突し、この戦いで先鋒の総大将として出陣した辰業は、3月25日、那須勢の蘆野資泰の陣に突撃し、神田次郎に討たれる。そして、天正12年(1584年)8月初め、山田辰業(泰業の孫)は主命により那須氏領の薄葉、平沢を攻めた[3]時生まれた確執によって、その後、那須勢は、薄葉ヶ原に接する山田の地に攻め入り、山田城を落城させ、山田城はそのまま廃城となった。その時、山田辰業の子供である山田親業が常陸国笠間へ逃げる途中名前を黒子と変えた[4]、これが黒子姓の始まりである。

この氏名の変更について栃木県の苗字研究者も「宇都宮氏の家臣としては山田大隅守、同内記、同記膳などの名が伝えられているが、これらの家系については何らかの理由でいずれも黒子氏に改姓してしまったようである。」と言及している。( 遅沢俊郎 『栃木の苗字と家紋 下巻』下野新聞社、1989年、p.347)

また、離散後の黒子氏は家紋も蝶紋から蟹紋に変えたと伝わっている。蟹紋については丹羽基二『家系の秘密: 苗字と家紋の考証学』が詳しい。

「平氏が壇ノ浦に滅亡したとき、その怨念が凝って蟹になったという。平家蟹の甲羅を見ると、たしかに無念やるかたなき武者のうらみの面魂だ。女の魂のほうは空に飛んで蝶になったというが、このほうは、まだしも美しい。(中略)蟹紋の使用者はあまり多くはない。それというのが、前述のように呪いの紋だからである。村上氏が、甲州の武田氏に滅ぼされて以来、全国に散ったときのカムフラージュの紋。このほか、常陸国新治郡黒子氏などもそれぞれ曰くがある。」(丹羽基二『家系の秘密: 苗字と家紋の考証学』PHP研究所、1980年、p.214)

このように当時、離散を余儀なくされた一族が変姓、変紋を通じて後世に無念を伝えることがあったようだ。平氏の末裔である黒子氏が、伊勢平氏貞季流の祖地・山田庄にちなんだ山田城の名を捨て、黒子と称し、離散の途につく際にこの蟹紋を選んだことは、まさにふさわしい選択であったといえる。(貞能の異母兄である平家継(平田家継)は山田庄を基盤にしており、源平合戦後の混乱期三日平氏の乱 (鎌倉時代)を起こしたことで知られている。また、現在の「黒子姓」の分布で最も多いのは宇都宮家の墓所栃木県益子町上大羽150名、次に多いのは栃木県宇都宮市宮山田75名である。[5]

伊予二神家を研究している萬井良大はその後の黒子氏について「宇都宮家旧臣性名書」『宇都宮市史第二巻中世史料編』を引きながら「当史料は宇都宮氏が改易となった直後に作成されたものであり、宇都宮家の当主の家に相伝されてきたことから、かなり信憑性の高いものと考えられている。こうした被官関係がどこまで遡るが判らないが、中世末期の下野国の有力者に黒子氏がいたことは間違いない」と説明している。[6]

宇都宮家に再臣従した黒子氏の一部は伊予宇都宮家の祖となった宇都宮豊房に同行し伊予に移住した。そして二神氏と名乗り二神島を支配した。[7]現在でも同島および愛媛県に「黒子」の苗字を認める。ちなみに「宇都宮」姓は愛媛県が最も多い。

宇都宮家改易後の黒子家

宇都宮家が慶長2年(1597)秀吉によって改易されると黒子氏一門の多くも職を失いその多くが浪人となった。他家に職を求めた者もいたが黒子儀太夫・伊予守家[8](宇都宮家の重臣であった)は仕官先を求めなかった。

・黒子主家

黒子主家はその後宇都宮家に付き従い、宇都宮家代々の墓所を守る芳賀郡益子町大字上大羽鎭座綱神社の墓所付き家老となった[9]

この綱神社は山田氏初代、黒子氏の祖である平貞能を助け、頼朝に助命を嘆願した宇都宮朝綱が創設し、余生を過ごした場所である。またこの大羽という地は「市貝町史 第4巻(通史編)」によると「朝網が大羽に地蔵院を開基したのが1194年(建久五年)で、妙雲寺、安善寺の開基もまた同年である。このことから、朝網が晩年に貞能を塩原から大平の地に招いたと推定され、朝網と貞能の深い友情の証しとも考えられている。[10]」とあり、朝網と貞能にとって因縁深い土地であることが分かる。黒子主家がその家格にも関わらず再仕官せず、家祖の恩人と主君家の墓所地に残ったことは特筆に値する。(地蔵院の代表も近年まで黒子氏が務める。[11]

「市貝町史 第4巻(通史編)」には江戸時代に修繕されたことも記されている。

『貞享五年(1688)墨書銘あり「貞享五年五月三日 大工 田中若衛門 施主 黒子儀太夫綱利」

宇都宮市史 第3巻によると「(宇都宮氏改易後)その他の家臣たちの多くは帰農したようである。『旧臣姓名書』の類に残されている人名と村名とが、現在でも照合できる場合も多く、またその家が文書や系譜を伝えているものも二、三にとどまらない。特に宇都宮家累代の廟所のあった大羽村においては、黒子氏をはじめ多くの家臣団がそのまま土着農した形跡が著しい。」と改易後の宇都宮家臣団の転末について黒子氏を筆頭に説明している。(『宇都宮市史 第3巻(中世通史編)』宇都宮市史編さん委員会編、宇都宮市、1981年[12]

宇都宮氏歴代墓所を守る綱神社はその後将軍家より朱印状を賜った。明治36年(1903)に編纂された『下野神社沿革誌』には「神主は往古より黑子家なりしも近世故ありて木村氏奉仕せり社域一千七百九坪高燥の地にして古樹亭々と高く聳ひ幽邃にして山水に富むの境なり」[13]とある。

後述する幕臣としての黒子家はこの流れである。

・出羽黒子家

宇都宮氏の陪臣として常陸佐竹家(国綱の弟を頼って)に仕官先を求めたものがみられる。ただし、この家については後述する正根寺氏系黒子家である可能性もある。

・壬生黒子家

宇都宮氏傍流の壬生家に使えた家(義太夫家)は壬生家断絶後、庄屋役となり代々「黒子若狭守」する官途状を京都壬生官務家(地下家)を通じて朝廷より受けていた。寛政10年にも10代目になる黒子庄兵衛が受けた記録が残っている。(「寛政十年黒子彦作之官途状由来 」壬生町、壬生町史 資料編 原始古代・中世編1987.10)本家については通名「義太夫」が同じであることや主君が宇都宮傍流であることから平姓であるとも、家系図による部分では松平姓とも考えられる。

・幕臣としての黒子家

幕臣としては普請方に旗本として仕官した者が見られる。[14]この家は代々「宗(惣)三郎」を称し、普請方の普請下奉行や大工頭を輩出した[15][16]。屋敷は本所南割下水[15]とある。

藤森稲荷の寄進灯篭(1845)には「黒子宗三郎平久経」[17]公的な名乗りとしては日光山大猷院霊廟天保十三年修営棟札に「普請下奉行 黒子宗三郎平久経」[18]とあり、累代の平姓下野黒子家の流れであることが分かる。また宗三郎の名乗りは黒子儀太夫家の分家であることを示す[19]

正根寺流(松平姓)黒子氏

平姓黒子氏とは別流。松平直基の次男を祖として多賀谷家臣、正根寺氏の中に成立。家紋は丸に七など多数。

正根寺氏の祖は美濃国の芥比城主正根寺信濃守重信なる者で、没落後多賀谷氏に仕え黒子城を与えられたといわれている[20]。この芥比城の実在については確認されていない。このように正根寺氏はその出自は定かではなかったが、黒子の城主として引き立てられたことは確かである。そして三代目は重久(善太夫)は松平直基の二男であり、黒子城城主となったことで松平姓黒子氏が成立した。このことについて石井忠行「伊頭園茶話」(『新秋田叢書 第7巻』 新秋田叢書編集委員会、1972年)は以下のように述べている。

「正根寺又右エ門と云ふは多賀谷の家士也。元越前家松平大和守の二男、黒子の城主黒野善太夫と云ふ沢(ママ)有りて多賀谷に仕ふと云ふ。松平家より帰参を求む。不帰。達上聞御青印を給ふ。又命ずるに松平家に帰姓勝手たるべしと、松平家より珍妙の轡香炉の類を贈り帰参を求むれども不肯、如何なる訳あるか不知云々。」

このように松平家の二男が善太夫を名乗り黒子城主として多賀谷に仕えていたと伝承されている。同様の伝承には「秋田風土記 山本郡の部」がある[21]

確かに、上記記載は伝承である。しかし『「秋田藩家蔵文書」対照索引 : 秋田県立秋田図書館所蔵』[22]には松平直基が「家わけ:正根寺」「名:黒子善太夫」へ向けて書状(寛永2年12月25日)を出していた事実が記録されている。この寛永初年は直基が叔父、忠直が秀忠との対立により強制引退となり、越前松平家が混乱している時期であり、実子に対して「帰参」を求めたことは妥当であったであろう。そもそも、家康の庶長家、結城家の当主が陪臣のしかも由来不明の家臣の次男に書状を何度も送ることなどあるのだろうか。多賀谷氏の資料にもこの松平家との関係は書かれている(しかし多賀谷家資料では松平家に仕官したことになっている[23])。

以上のように、どのような経緯かは不明だが直基の実子が正根寺氏という陪臣の家に預けられ家督を継ぎ、黒子と称したということは明治初年に至るまでその子孫や周囲にとって事実として受け取られてきたと考えられる。

脚注

出典

  1. ^ 川合 2009, p. [要ページ番号].
  2. ^ 『吾妻鏡』7月7日条
  3. ^ 『那須記』
  4. ^ 『山田環住来記』[要文献特定詳細情報]
  5. ^ 『日本姓氏総覧』角川書店、1996年。 
  6. ^ 萬井良大 (2016). “中世二神氏の様相”. 論集、瀬戸内海の歴史民俗: 99. 
  7. ^ 萬井良大 (2016). “中世二神氏の様相”. 瀬戸内海の歴史民俗: 97. 
  8. ^ 『『鹿沼聞書・下野神名帳』』不明、1800年。 
  9. ^ 菅原豊直『下野掌覧』荒物屋伊右衛門、1860年。 
  10. ^ 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2025年9月16日閲覧。
  11. ^ 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2025年9月17日閲覧。
  12. ^ 『[info:ndljp/pid/9642341 宇都宮市史 第3巻(中世通史編)]』宇都宮市、1981年。info:ndljp/pid/9642341 
  13. ^ 風山広雄『『下野神社沿革誌』巻六』風山広雄、1903年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/815437 
  14. ^ 『東京市史稿』東京市、1940年、763頁。 
  15. ^ a b 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2025年9月16日閲覧。
  16. ^ 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2025年9月16日閲覧。
  17. ^ 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2025年9月16日閲覧。
  18. ^ 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2025年9月16日閲覧。
  19. ^ 『幕士録』徳川幕府、1827年。 
  20. ^ 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2025年9月16日閲覧。
  21. ^ 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2025年9月16日閲覧。
  22. ^ 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2025年9月16日閲覧。
  23. ^ 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2025年9月16日閲覧。

参考文献

関連項目


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