鰍沢文政大火
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/27 08:12 UTC 版)
文政4年(1821年)正月16日には鰍沢文政大火が発生する。大火は問屋街から出火し、御米蔵と御詰所、千俵以上の年貢米、民家77軒が焼失した。文政大火の様子は原田家文書(富士川町指定文化財)に記されている。 文政大火後には甲府代官所所管の郡中惣代では焼失した年貢米の弁済を求められ、市川大門村(市川三郷町市川大門)への御米蔵移転も企図され、江戸の勘定奉行所で遠山景晋(左衛門尉)により裁定された。裁定の結果、年貢米の弁済、御米蔵再建の費用は瓦屋根分を除き郡中惣代が負担し、再び失火が起きた際は鰍沢河岸が全額負担することが定められた。御米村は市川大門村に移転されることなく再び鰍沢河岸に築かれたが、御蔵周辺の防火措置が定められた。 鰍沢河岸出土の陶磁器には文政大火による熱変性で釉薬の光沢が失われたり、発泡しているものや熱変形したもの、ひびが入ったものなのがあり、鰍沢河岸出土の遺構・遺物の年代を推定する指標にもなっている。
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