魏・趙の交戦
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紀元前354年、趙は衛に侵攻して漆と富丘(現在の河南省新郷市長垣市)を取った。衛は魏の保護国であるため、魏は趙の侵攻を防ぐため宋と連合して衛を援助して、攻勢に出た。魏・衛・宋の三国連合軍は趙の国都の邯鄲に侵攻した。趙は門を閉門して防守し、斉に救いを求める伝者を送った。同盟軍は邯鄲を包囲し、一気に趙を滅ぼそうとした。そのため自国の守りが手薄となった。秦は魏軍の主力の不在を目につけて、河西の少梁(現在の陝西省渭南市韓城市)の地を奪取した。この戦争により、魏は自国が包囲侵攻される可能性が却って大きくなってしまった。
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