鬼作左の由来
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 06:54 UTC 版)
重次は気性が荒く、家康にも遠慮なく諫言した。また武勇に秀でており、三方ヶ原の戦いでは大敗した徳川軍の中で、自ら敵兵数十人に囲まれて絶体絶命に陥る中、敵兵の繰り出す槍をたぐって1騎を落馬させ、首をかき切ってその馬を奪って浜松城に逃げ込んだ、という逸話も伝わる。 性格に関して新井白石は「重次は恐ろしげに見え、言いたい放題を言い、思慮のあるようではなく、奉行など務まる柄ではないように思えた。だが心正しく、しかも民を用いるのに配慮があり、訴訟をよく聞き事を明らかにした」と評価している。
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