高橋新五郎とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 高橋新五郎の意味・解説 

高橋新五郎

(高橋数馬 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/30 22:30 UTC 版)

高橋 新五郎(たかはし しんごろう、2代目、寛政3年1月5日(1791年2月7日)- 安政4年6月25日(1857年8月14日[1])は、塚越結城織の祖とされる、幕末期の実業家、発明家[2]

経歴

武蔵国足立郡塚越村(後の埼玉県蕨市)に生まれ、幼名を国太郎といった[2]。父の初代高橋新五郎(1766年 - 1816年)は、高橋家の四代目にあたり、木綿や錦糸を扱う糸商人として、足利青梅といった織物業が盛んであった地域に糸を供給していた[3]

やがて高橋家五代目当主として2代目新五郎を名乗るようになり、文政年間の1824年から1825年ころに、織機である高機を改良して青縞の生産を始め[1]1826年に夢に東照大権現が現れ「東屋」と呼ばれたのを機にこれを商号とする[4]。以降、生産規模を拡大して、天保年間の1837年には機台数102台(一説には120台)、藍甕数130本(一説には300本余)の規模に事業を拡大した[1]。これは後に、幕末期におけるマニュファクチュアの事例として言及された[4]

1840年に、息子である3代目新五郎に家督を譲り、隠居して数馬と名乗った[1]

没後は、妻とともに機祖神社に祀られ、また、1924年には従五位を追贈された[2]。現在は、塚越稲荷神社内の機神社に祀られている[5][6]

子孫

3代目新五郎は、塚越結城に絹糸を交織した東屋唐桟を開発し、文久に入った1861年には輸入綿糸による双子縞(塚越双子)を考案した[1]

さらに、4代目新五郎も、双子縞(塚越双子、埼玉双子、東京双子)を開発したとされる[2]

脚注

  1. ^ a b c d e 谷本雅之. "高橋新五郎(2代)". 朝日日本歴史人物事典. コトバンクより2023年7月29日閲覧
  2. ^ a b c d 大村進. "高橋新五郎". 日本大百科全書(ニッポニカ). コトバンクより2023年7月29日閲覧
  3. ^ 埼玉ゆかりの偉人/検索結果(詳細)/初代 高橋 新五郎”. 埼玉県. 2023年7月29日閲覧。
  4. ^ a b 中野光浩「民衆が祀る東照宮の歴史的性格について」『論集きんせい』第24号、2002年、91-93頁。 
  5. ^ ちょこたび埼玉 塚越稲荷神社”. 埼玉県物産観光協会. 2023年7月29日閲覧。
  6. ^ 高橋新五郎遺跡(市指定文化財)”. 蕨市. 2023年7月29日閲覧。



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  高橋新五郎のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「高橋新五郎」の関連用語

高橋新五郎のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



高橋新五郎のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの高橋新五郎 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS