飯田家貞とは? わかりやすく解説

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飯田家貞

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/09/21 00:08 UTC 版)

飯田 家貞(いいだ いえさだ、生年不詳 ‐ 慶長19年(1614年11月26日)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての坊官備後守

略歴

三宝院門跡の坊官で、門跡の覚定・高賢の二代にわたって坊官をつとめた。

但し異説として醍醐寺坊官だったというものがある。これによると家貞の生存時代が齟齬するため、三宝院門跡坊官は別人と考えられる。

醍醐寺は慶長5年(1600年)に豊臣秀吉の時代から行われていた金堂の移築工事が完成し、同10年(1605年)には西大門の再建、11年(1606年)には如意輪堂、開山堂、五大堂の再建が行われた。

豊臣秀頼寄進で醍醐寺は復興したため、家貞は豊臣家に対する想いは強かった。方広寺鐘銘事件では徳川家に対して反感を持った。

19年(1614年大坂の陣では醍醐寺義演南光坊天海との論争が一因となり、家貞が浪人衆として豊臣方に参陣。

大野治長隊の部隊長となり、兵300を率いて鴫野砦主に就いた。

今福の戦いで今福砦の矢野正倫と共に佐竹義宣指揮下の兵1,500と戦う[1][2]。しかし寡兵に多勢、家貞は正倫ともに討ち死にを遂げた。

参考資料

  • 「義宣家譜」(『佐竹家譜』)[要文献特定詳細情報]

脚注

  1. ^ 今福の戦いについて、「義宣家譜」の「慶長十九年十一月二十六日の条」に記されている。
  2. ^ 今福の戦いの解説”. tikugo.com. 2021年9月14日閲覧。

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