飯淵七三郎とは? わかりやすく解説

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飯淵七三郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/07 16:02 UTC 版)

飯淵 七三郎(飯渕[1]、いいぶち しちさぶろう、1846年11月8日(弘化3年9月20日[2])- 1926年大正15年)4月20日[3])は、明治から大正時代の政治家銀行家貴族院多額納税者議員

経歴

素封家[1]・飯淵藤七の長男[2]として陸奥仙台藩柴田郡船岡村(船岡町を経て現柴田町)に生まれる[4]。1874年(明治7年)11月、家督を相続した[2]1879年(明治12年)船岡村会議員に当選[3]。翌年、宮城県会議員となる[4]1893年(明治26年)久保寺豊太郎から仙台の日進学舎[注 1]を買収し、同校の改革に努めた[4]。ほか、柴田郡会議員、同議長代理などを歴任した[3]。また、農家の指導啓発に尽力するとともに、船岡村農会を設立して肥料購入、資金融資の便宜を図った[1]

1894年(明治27年)補欠選挙[5]で宮城県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年7月4日[6]から1897年(明治30年)9月28日まで在任した[3]1899年(明治32年)には商業貯金銀行の設立に参画し、筆頭取締役に就任した[4]

謡曲を能くし、如城と号した[4]。墓所は角田市神次郎の法光山妙立寺[4]。ほか、柴田町船岡館山に飯淵翁頌徳碑がある[4]

脚注

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注釈

  1. ^ 宮城県立第二中学校の前身。『宮城県百科事典』34頁。

出典

  1. ^ a b c 『宮城県百科事典』34頁。
  2. ^ a b c 『大正人名辞典 第3版』164頁。
  3. ^ a b c d 衆議院、参議院 編 1960, 179頁.
  4. ^ a b c d e f g 竹内ほか 1994, 301頁.
  5. ^ 『貴族院要覧(丙)』5頁。
  6. ^ 『官報』第3305号、明治27年7月6日。

参考文献

  • 東洋新報社編『大正人名辞典 第3版』東洋新報社、1917年。
  • 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
  • 衆議院、参議院 編 『議会制度七十年史 第1』大蔵省印刷局、1960年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3034963 
  • 『宮城県百科事典』河北新報社、1982年。
  • 竹内理三ほか 編纂 『宮城県姓氏家系大辞典』角川日本姓氏歴史人物大辞典4、角川書店、1994年。ISBN 4040020405 



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