離反と帰参
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/05 02:47 UTC 版)
足利幕府の内紛から発展した観応の擾乱が勃発すると、はじめ足利直義方に与してその有力武将となるものの、直義失脚後に尊氏方に帰順。やがて直義が南朝に降伏し尊氏方に対して挙兵すると、これに呼応して直義方に復帰したが、直義の死後に再度尊氏方に帰順した。この間に正平一統における南朝方の京都制圧においては義詮を助けて京都奪還に功をあげる。しかし正平10年/文和4年(1355年)、尊氏の庶子で直義の養子である直冬に呼応して三度幕府に反旗を翻し、今度は自身が京都を制圧するに至った。その翌年の正平12年/延文元年(1356年)、軍勢の衰えた直冬方から離反してまたも幕府へ帰参するなど、叛服常なき行動を繰り返した(なお、次男の氏経は直冬方の離反には従わず、尊氏が父・高経から没収した越前国を与えられている)。
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