関口義慶二
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関口 義慶二(せきぐち ぎけじ、1882年(明治15年)1月4日[1] - 1945年(昭和20年)2月[2])は、大正から昭和時代前期の政治家。群馬県桐生市長。
経歴・人物
関口玉吉の長男として群馬県邑楽郡高島村に生まれる[1][3][4]。1903年(明治36年)3月、群馬県師範学校を卒業後、教員となり、1907年(明治40年)3月、群馬県川場小学校の校長に就任[1]。
ついで、官界に転じ、同県北甘楽郡視学、群馬県属、知事官房主事、碓氷郡長、山田郡長を経て、1925年(大正14年)8月12日に桐生市長に就任[1][3]。1933年(昭和8年)に桐生火葬場事件の責任を取って一旦辞任したものの[5]、市議会に推されて[6]40日後に再就任し[5]、1940年(昭和15年)5月まで市長を務めた[3]。
1934年(昭和9年)の昭和天皇誤導事件は桐生市で発生した。桐生市に直接の責任はなかったが[5]、桐生市長の関口と桐生市議会議長は謝罪文を発表するとともに、東京の宮内省に出向いて謝罪している[7]。
脚注
- ^ a b c d 帝国自治協会 1938, 19頁.
- ^ “落ち葉掃きの風景”. ウェブ桐生タイムス (2015年12月18日). 2020年11月19日閲覧。
- ^ a b c 帝国秘密探偵社 1943, 群馬15頁.
- ^ 人事興信所 1928, セ16頁.
- ^ a b c 先覚の群像 1981, p. 144.
- ^ 桐生市制十五年誌後編 1937, p. 1540.
- ^ 先覚の群像 1981, p. 172.
参考文献
- 帝国自治協会 著『全国市長銘鑑 : 自治制実施五十周年記念』帝国自治協会、1938年 。
- 帝国秘密探偵社 編『大衆人事録 第14版 北海道・奥羽・関東・中部篇』帝国秘密探偵社、1943年 。
- 人事興信所『人事興信録 第8版』人事興信所、1928年 。
- 桐生市制施行六十周年記念行事実行委員会 編「市の路線を固める 関口義慶二」『先覚の群像』桐生市、1981年、144-172頁。NDLJP:12253288/80。
- 桐生市 編『桐生市制十五年誌 後編』桐生市、1937年、1540頁。NDLJP:1451921/462。
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