長谷川義太郎とは? わかりやすく解説

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長谷川義太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/08 20:41 UTC 版)

長谷川 義太郎(はせがわ よしたろう、1946年5月18日 - )は、日本実業家。1974年から2015 年まで東京の渋谷原宿で営業した文化屋雑貨店の店主を務めた。

来歴・人物

この節の出典:[1]

千葉県富里村(現・富里市)に生まれる。東京都墨田区にて外科医の長男として裕福な家庭で育つ。幼いときから銀座のデパートに出かけるなど文化資本に恵まれ、独特の審美眼を身につけることとなった。

千代田区立麹町中学校に進学。同級生には,1987年にシブヤ西武ロフト館を立ち上げた水野誠一(後に西武百貨店社長,参議院議員)やビギグループのデザイナー・小栗壮介などがいる。

1970年武蔵野美術大学を卒業後デザイン事務所に就職。デザイナーを統括するディレクターであった菊地信義に影響を受ける。

1974年3月24日、文化屋雑貨店を渋谷に開業。1978年、画家・塗り絵作家である蔦谷喜一が資生堂ザ・ギンザホールで個展を行う。長谷川はデザイナー時代からきいちの商品を扱っており、その後文化屋雑貨店の定番商品として定着した。

1988年、ビル建て替えのため立ち退き。文化屋雑貨店を原宿に移転。

2013年、「ポール・スミス」旗艦店のPaul Smith SPACEで、大型のポップアップショップBunkaya meets Paul Smithをオープン。ポール・スミスとのコラボ商品を販売した。

2015年1月15日、文化屋雑貨店を閉店する。

2017年、写真家の五味彬らの協力を得て、自身の叔父である福光太郎の展覧会を開催。

雑貨

日本独自の製品カテゴリーである「雑貨」という概念を創造した。これを通じて、消費者のみならずファッションデザイナーやモデル、雑誌編集者など内外のクリエイターに対して、現在に至るまで多大なる影響力を与えている。

著書

外部リンク

脚注

  1. ^ 松井剛, 「「雑貨」という謎カテゴリーを創った男,長谷川義太郎 : 文化屋雑貨店」『マーケティングジャーナル』 2019年 38巻 3号 p.111-124, 日本マーケティング学会, doi:10.7222/marketing.2019.009



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