長者「蜂屋」の跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/11 09:52 UTC 版)
「八王子社 (奈良市納院町)」の記事における「長者「蜂屋」の跡」の解説
室町時代より当社の建つ納院町では、蜂屋姓の冶金業者が繁栄し、康正年間には蜂屋五郎三郎が有徳人として、興福寺に有徳銭を課せられていたという。また納院町は蜂屋辻子(ずし)とも呼ばれたという。 戦国時代には茶人として著名な蜂屋紹佐がこの地に住み、時の人からは「蜂屋殿」と呼ばれていた。紹佐は金銭は減り易いので子孫に伝え難いと思い、井戸を掘り砥石を積み重ねて金を埋めておいた。紹佐は元亀2年(1571年)7月に松永久秀の多聞山城内で死亡したが、その後曽孫の代になり蜂屋も貧乏になったため、井戸を掘り返したところ、砥石は全て墉石となり、金も見つからず家は衰えたと伝わる。蜂屋の屋敷であったところが現在の八王子社の所在地であり、蜂屋神社の異名もそこから生じている。
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