長原古墳群の発見と調査の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/29 05:12 UTC 版)
「長原古墳群」の記事における「長原古墳群の発見と調査の経緯」の解説
1973年(昭和48年)、大阪市営地下鉄谷町線延長計画に伴う長原遺跡の発掘調査で、地上には何ら古墳の痕跡がないのに円筒埴輪などが次々と出土した。調査を続けると墳丘の盛土の多くは失われているものの、墳裾に周溝を持つ小規模な古墳の痕跡が多数残っていることが判明した。 次いで、直径50メートル以上、残存部で2段に築かれた墳丘が姿を現し、その地区の小字名が塚ノ本であることから、塚ノ本古墳(円墳)と名付けられた。地籍図を調べると他にも、一ヶ塚、落塚、狐塚、高塚など周囲にかつて古墳が存在したことをうかがわせる地名が存在し、その範囲は南北2キロメートル、東西1.5キロメートルにも及んでいた。 これらの範囲では市営地下鉄工事の後も近畿自動車道の建設、区画整理事業、下水道工事、住宅建設、建築の建て替え工事などに伴い、続々と古墳の遺構が調査され、2006年までに調査、検出された数は213基にも及んでいる。
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