那須氏との抗争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/21 09:24 UTC 版)
永禄3年(1560年)、小田倉の戦いでは、白河結城氏・蘆名氏の侵攻に際し那須資胤を援け、防戦に努めたが、戦後、合戦に苦戦した事を非難され、主家と対立。高増は大田原氏ら上那須衆と共に佐竹氏に内通した。以後、上那須衆と那須氏の間で戦いが繰り返され、永禄9年(1566年)には佐竹氏・下野宇都宮氏も加わり資胤を攻撃。しかし資胤の奮戦に退けられ、翌年、佐竹義重と共に大崖山で那須氏と戦うが、再び退けられた。
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