那津官家との関連
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/18 07:45 UTC 版)
建物の存続期間に加え、10棟の倉庫が計画的に配置されていること、建物間に十分な空閑地を設けていること、周辺に「官田」「三宅田」「犬飼」などの地名がみられることから勘案すると、この遺構は官衙跡であり、『日本書紀』が記す「那津官家」に関わるものである可能性が高い。 『書紀』宣化天皇元年条(536年)に「修造官家那津之口」、すなわち、「那津(なのつ、現在の博多付近)の口(ほとり)に官家(みやけ)を修(つく)り造(た)てよ」とある。「ミヤケ」とは、ヤマト政権の直轄地、出先機関の意である。那津官家は、527年に発生した磐井の乱や、当時の朝鮮半島情勢の緊迫化を背景に、北部九州の支配確立と対外防衛のため、半島・大陸への窓口であるこの場所に政権の政治的・軍事的拠点として置かれたものであり、後の律令政府における大宰府政庁の前身ともみなされている。
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