遥任による形骸化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/02 14:22 UTC 版)
弘仁8年(817年)の藤原冬嗣以降、陸奥・出羽両国経営に関わりがない高位の公卿が陸奥出羽按察使を兼任することが多くなった。官位は三位、二位、官職は中納言、大納言である。それとともに遙任が普通になった。陸奥国・出羽国は按察使を介さずそれぞれ中央に直接結びつき、両国の統一行政は行われなくなった。 この現実にあわせ、寛平7年(895年)11月7日には遙授の陸奥出羽按察使の傔杖が廃止された。延喜式にも遙任の按察使に傔杖を与えないことが定められ、さらに与える場合にも太政官への申告を要することになっていた。 『延喜式』にはまた、按察使の公廨(公廨稲)が国守に准じ六分を給することが規定されている。季禄と衣服は陸奥国の正税を交易してあてることになっていた。
※この「遥任による形骸化」の解説は、「陸奥按察使」の解説の一部です。
「遥任による形骸化」を含む「陸奥按察使」の記事については、「陸奥按察使」の概要を参照ください。
Weblioに収録されているすべての辞書から遥任による形骸化を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。
全ての辞書から遥任による形骸化 を検索
- 遥任による形骸化のページへのリンク