趙瓊奎とは? わかりやすく解説

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趙瓊奎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/24 16:40 UTC 版)

趙 瓊奎(チョ・ギョンギュ、朝鮮語: 조경규1904年1月6日[1] - 1983年1月13日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国産婦人科医実業家政治家。第2・3・4代韓国国会議員、第3代前・後期民議院副議長[2]

本貫咸安趙氏[3]ジャーナリスト趙鏞寿朝鮮語版の叔父である[4]

経歴

慶南咸安出身。培材高普、セブランス医学専門学校(現・延世大学校)卒、京都帝大大学院修了。産婦人科医、大邱民報社長、大邱時事新報社長、慶北国民訓練院長、国民会大邱市副委員長・大邱支部組織部長・慶尚北道支部長・中央本部副会長、大韓労総最高委員を歴任した。1948年の初代総選挙に出馬したが落選し、1950年の第2代総選挙で大邱市から初当選し、自由党院内議員部政策委員長・中央委員、国会懲戒資格委員長・内務治安委員長・全院委員長・内務委員長、第3代国会民議院副議長を務めた。自由党の大物だったが、国会議長選を前に李起鵬と対立したため、党内非主流派の評価を受けたものの、4・19革命以降はしばらく自由党院内総務を務めた[5][2][1]。1960年の第5代総選挙でも出馬した[4]

1983年1月13日、持病により慶南蔚山の病院で死去。享年80[6]

脚注

  1. ^ a b 근현대인물자료 < 한국 근대 사료 DB”. db.history.go.kr. 2025年2月24日閲覧。
  2. ^ a b 대한민국헌정회”. www.rokps.or.kr. 2025年2月24日閲覧。
  3. ^ (30)함안 조씨(咸安趙氏)-259,196명”. 금융소비자뉴스 (2014年8月7日). 2025年2月24日閲覧。
  4. ^ a b 박정희는 왜 조용수를 형장의 이슬로 사라지게 했을까? ... [[민족일보] 사옥 터]” (朝鮮語). 통일뉴스 (2023年12月20日). 2025年2月24日閲覧。
  5. ^ 최창렬, “조경규 (趙瓊奎)” (朝鮮語), 韓国民族文化大百科事典 (韓国学中央研究院), https://encykorea.aks.ac.kr/Article/E0051553 2025年2月24日閲覧。 
  6. ^ 前國會副議長(전국회부의장) 趙瓊奎(조경규)씨”. NAVER Newslibrary. 경향신문 (1983年1月15日). 2025年2月24日閲覧。



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