西燕時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/31 22:44 UTC 版)
385年春、慕容暐が処刑されたことを受けて慕容沖は西燕の皇帝に即位した。しかし12歳の慕容盛は慕容沖は大成しないだろうと評価した。同年夏に慕容沖が長安を占拠すると、配下の鮮卑人はそのまま長安に移住することに賛成せず、東の故地に帰りたがった。翌年、配下の部将の1人が慕容沖を暗殺し、西燕軍は長安を棄てて東進した。東進に反対した五人の皇帝を数ヶ月間で入れ替えたのち、皇帝は慕容永に落ち着いて、西燕で慕容盛は慕容柔や慕容会と共に長子(山西省)に移住した。 同年冬、慕容盛は慕容柔と慕容会に、西燕皇帝に皇統の関係から疎まれていることを相談して、三人は慕容垂の後燕に奔った(ちなみに西燕皇帝は後年に慕容垂の子孫をことごとく誅殺している)。慕容垂は自ら三人は後燕の都中山(河北省)に迎えた。慕容垂が14歳の慕容盛に西燕の事情を聞くと、慕容垂が仁政を敷けば西燕軍は皇帝を棄てて後燕に帰するだろうと答えた。慕容垂は喜び、慕容柔を陽平王に、慕容会を清河公に、そして慕容盛を長楽公に封じた。
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